勝手神社
かつてじんじや
[現在地名]吉野町大字吉野山
蔵王堂の南約五〇〇メートル、袖振山を背後にして鎮座する。祭神は天忍穂耳尊・大山祇命・木花咲耶姫命・久久廼智命など六神。「和州旧跡幽考」には愛鬘命とある。吉野水分神社に対して、山口神社ともいう。日雄寺継統記(桜本坊蔵)は孝安天皇六年創立と伝える。金峯山秘密伝(日本大蔵経)に「伝云、勝手大明神此多聞天王垂迹、此仏法護持大将、国家鎮守首鎮也」とあり、中世には蔵王権現とともに修験者の信仰が厚かった。「太平記」巻二六(吉野皇居炎上事)に、後村上天皇が「勝手ノ宮」の前で馬を下り「憑カヒ無ニ付テモ誓ヒテシ勝手ノ神ノ名コソ惜ケレ」の一首を残して高師直の軍を賀名生(現奈良県西吉野村)に避けたとある。
勝手神社
かつてじんじや
[現在地名]竜王町岡屋
岡屋集落の中央にある。祭神は受鬘之神など。正和二年(一三一三)四月の勝手神社の定置札写に「岡屋」の名がみられる。応永七年(一四〇〇)八月二二日の棟札(社蔵)には「岡屋大明神」とあり、また近世には勝手大明神とも称された(輿地志略)。社伝によれば、草創は貞観元年(八五九)のことというが、年未詳の棟札写(社蔵)には「天平中ニ神紀与二つニわかれ祭礼村座東西初リ」とあって、奈良時代の創建を伝える。
勝手神社
かつてじんじや
[現在地名]伊賀町山畑
山畑集落の西の入口子守に鎮座。祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳命ほか一〇柱。旧村社。「宗国史」に「子守勝手」とある神社で、古くは子守神社と称した。天文二三年(一五五四)の棟札が残っており、「奉上棟子守社但修理所也浄正坊宗慶御蔽御頂戴両地頭愈代」とある。「伊水温故」には「勝手明神 愛髪命ノ垂跡、亦一儀ニ勝手ハ吾勝尊、秘決ノ神也」と記す。明治四一年(一九〇八)山畑に散在する浅間神社・春日神社(境内社に津島・愛宕・事毘羅・稲荷の各社あり)・日吉神社・稲荷神社を当社に合祀し、山畑全戸が氏子となった。
勝手神社
かつてじんじや
[現在地名]竜王町薬師
受鬘之神を祀る。推古天皇の頃に大和吉野より竜王山南腹に勧請されたのが草創と伝える。文明一四年(一四八二)一二月二九日銘の鰐口には「医師社」とみえ、古くは医師大明神などと称され、また勝手大明神ともよばれた。永禄一一年(一五六八)九月一七日の兵火にかかり、七社御宝殿・拝殿・七間御供所・宝蔵・鐘楼・如法経堂・庵室・薬師堂などをことごとく焼失、同年一二月二一日氏人・村人の勧進により仮堂を再建している(「棟札」社蔵)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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