勝間村
こつまむら
[現在地名]西成区玉出〈東一―二丁目・中一―二丁目・西一―二丁目〉・千本〈南一―二丁目・中一―二丁目・北一―二丁目〉・橘三丁目・潮路一―二丁目・岸里一―三丁目・岸里東一―二丁目
現西成区の南東部にあたり、西成郡に属する。東は東成郡天王寺村と住吉郡住吉村(現住吉区)、北は今宮村・木津村、西は十三間川を挟んで津守新田。村の東端を紀州街道が通る。古妻・木妻などとも記された(摂陽群談など)。地名は、仁治年間(一二四〇―四三)に当地を開発したという勝間大連にちなむとか、もと勝玉の里と称したが、「た」の音が略されて「かつま」となったなどと伝える。
慶長一四年(一六〇九)の片桐且元の検地によると高一千一一一石余、この時住吉郡から西成郡へ編入された(西成郡史)。
勝間村
かつまむら
[現在地名]臼田町大字勝間
北に城山(稲荷山)があり、南は台地となり、台地の東方段丘崖下の千曲川べりに細長い平地があって耕地となっている。東は千曲川によって下越村・入沢村三条組と対し、西・南は下小田切村・中小田切新田村と接し、北は臼田村と城山の峰をもって境している。佐久甲州道は臼田村境より中小田切新田村境まで、台地上を南北に通じている。
天正一四年(一五八六)依田(松平)康国領で信州佐久郡之内貫之御帳に「五拾貫 勝間町」とある。元和八年(一六二二)徳川忠長領で佐久郡高書上帳(柳沢文書)に「八拾七石八斗 勝間□町」。
勝間村
かつまむら
[現在地名]中村市勝間
鵜ノ江村の北西にあり、ホケガ森の山麓を東流して四万十川に流入する勝間川流域の村。合流点付近が中心集落。「土佐州郡志」は「中村之西、川登九村之一也、東西五町許南北六町余、戸凡五十七」と記す。流域に点在する鳥打場・踊り碆山・平畑の各遺跡は、いずれも縄文時代の遺跡で縄文土器・石錘・石鏃などが出土。
天正一八年(一五九〇)の川登九村地検帳によれば勝間村の検地面積一六町三反余、屋敷数二〇うち居屋敷一五で、大半は「散田分」。
勝間村
かつまむら
[現在地名]高遠町大字勝間
三峰川の左岸段丘上の山懐の村で、高遠城のある東高遠の非持除は対岸にあたる。
天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は中、村高は「三百八石三斗弐升七合 勝間」とあるのが初見である。同一〇年三月二日、高遠城落城の際、勝間の百姓たちはいち早く城に駆けつけ、討死した城主らの屍を勝間の若宮原に運んで火葬にし、後に五郎山とよばれる尾根に葬ったと伝えられる。
勝間村
かつまむら
[現在地名]市原市勝間
大桶村の北に位置する。中世は勝馬郷などとみえる。文禄三年(一五九四)検地があったとされ(上総国町村誌)、同年の上総国村高帳に村名がみえるが、高六七三石とするのは正保国絵図の高二七三石余などからして誤記の可能性が高い。元禄郷帳では高二七五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数六三で、三卿の清水領と旗本曾根領。
勝間村
かつまむら
[現在地名]岬町岩熊
岩熊村の南に位置する。寛文四年(一六六四)の阿部正春領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、武蔵国岩槻藩領。元禄郷帳では高六三石余で、以後幕末まで変化はない。享保四年(一七一九)には幕府領であるが(石野家文書)、延享三年(一七四六)当時は久留里藩領で(久留里藩領知目録)、以後同藩領として幕末に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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