〈けんりょくぶんりゅう〉ともいう。国権作用を複数の機関に分けて担当させ,それら諸機関を相互に独立のものとすることによって,お互いの均衡・抑制を確保しようとする制度,または,そのような思想をいう。立法・行政(執行)・司法(裁判)の3作用を三つの部門に分担させることが,今日通例となっており,そのような意味で,権力分立は,三権分立ともいわれる。〈権利の保障が確保されず,権力の分立が定められていない社会は,憲法を有しない〉(1789年フランス人権宣言16条)といわれるように,権力分立は,権力の濫用を防ぎ権利保障を確保するものとして,近代的・立憲的意味の憲法の不可欠な内容をなすものとされてきている。
もともと権力分立は,君主権力の恣意的な支配に対抗して,立法権,少なくともその主要な部分を議会がにぎり,また,独立した裁判所によって司法権が行使されるべきことを主張するものとして登場してきた。それゆえ,近代憲法のもとでの権力分立は,議会による立法権の掌握と,議会制定法による行政・司法両権の拘束を核心とする,多かれ少なかれ議会優位型の形態をとっていた(立法国家)が,その後,現代においては,さまざまの変容をこうむるようになっている。行政権についていえば,一方で,君主ではなく,国民意思による権威づけを与えられた行政府首長が重要な役割を演ずることによって,議会による民意の独占が破られ,他方で,そもそも民意のとどき難い官僚制部門が強大化し(行政国家),裁判所に関しては違憲審査制の役割が大きくなり,少なくとも裁判過程の法創造性が強まる(裁判国家)。そのうえ,国家すなわち政治権力だけでなく,さまざまの社会的権力が,〈権力〉分立の問題のなかに登場してくることになる。
日本国憲法は,国会を〈唯一の立法機関〉(41条)とし,〈行政権は,内閣に属する〉(65条)と述べるとともに,〈すべて司法権は,最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する〉(76条1項)と規定し,立法・行政・司法の3権の分立を基本構造として採用した。大日本帝国憲法では,天皇が〈統治権ヲ総攬〉(4条)するという根本的なたてまえのもとで,天皇の立法権の行使を帝国議会が〈協賛〉(5条)し,行政については国務大臣が〈輔弼(ほひつ)〉(55条)し,司法権も〈天皇ノ名ニ於テ〉裁判所がおこなう(57条)という構造であったのと比べ,日本国憲法は三権分立の根本原理により忠実であるが,三権分立の骨格を前提としたうえで,国会を〈国権の最高機関〉(41条)として位置づける点で,近代憲法確立期の議会中心主義を継承すると同時に,司法権に法令違憲審査権を与える(81条)点で,現代憲法に共通する傾向をもあわせ示している。
権力分立論には,古代ギリシアのヒッポダモスやアリストテレスの混合政体論にさかのぼる背景があるが,近代憲法の権力分立に大きな影響を及ぼしているのは,ロックとモンテスキューの思想である。ロックの《統治二論》(1689)は,生命・自由・所有物に対する固有の権利propertyを保全するために,各人が〈自然状態〉においてもっていた〈自然の権力〉を放棄して〈政治社会〉(〈市民社会〉)をつくりあげるのだという説明を前提とし,〈政治社会〉を形成した人民の意思による意識的な法制定作用として,〈立法〉というものを位置づける。ここでは,立法とは,propertyの保全という目的によって拘束された,しかし,人民の信託にもとづいて権限を与えられた人々の意識的な作用によって創造されるものとして考えられており,そのような立法の観念を中心として,〈政治社会〉の組織原理が想定される。一切の他の権力がそれに由来し従属しなければならない最高の権力である立法権legislative powerと,立法権によってつくられた〈定まった恒常的な法〉を執行する執行権executive powerとを同一人にゆだねるなら,彼らは自分のつくる法への服従を免れることになってしまうから,これら2権を,違った人間に担当させることが必要となる。
執行権が国内事項についての法の執行であるのに対し,対外的な安全と公益事項の管理をおこなう同盟権federative powerがあり,執行権と比べて,あらかじめ定められた法に拘束されるのに適していないという点で区別されるが,この2権は,同一者によって担当される。ロックの権力分立論は,1689年の権利章典Bill of Rightsの採択によって総括されたイギリス市民革命の成果を,議会を本質的な担い手とする立法権の優位という定式化によって示すものであった。
モンテスキューの権力分立論は,《法の精神》(1748)の〈イギリス憲法論〉の章で展開されている。彼は1730年前後にイギリスに滞在し,当時まだ絶対王政下にあったフランスと対照的な,イギリスの自由な政治制度に強くひかれたという。もっとも,この章で展開されている叙述が当時のイギリスの制度の記述として正しいものであるかどうかは,別の問題であるし,モンテスキューの叙述そのものが,その章のタイトルにもかかわらず一般論のかたちでなされている。彼は,〈すべて権力をもつ者はそれを濫用しがちである。彼は極限までその権力を用いる。それは不断の経験の示すところだ〉として,政治的自由を確保するために,立法権,万民法に関する事項の執行権,および,市民法に関する事項の執行権の3権の分立を説く。〈万民法に関する事項の執行権〉という表現には,ロックの同盟権概念の影響がみられるが,その指すところは,ロックのいう同盟権だけでなく,今日の権力分立論で一般に執行権と呼ばれているものをひろく含む。〈市民法に関する事項の執行権〉とは,〈犯罪及び個人の争訟を裁判する権力〉のことであり,つまるところ,〈裁判権〉である。これら3権のうち,立法権は人民の代表者と貴族,執行権は君主の手にそれぞれゆだねられる。裁判権については,〈ひとびとの間でかくもおそるべきもの〉なのであるが,常設の機関にそれを与えるのでなく,人民集団から選出される人々によって一定の期間だけ存続する裁判所をつくることによって,一定の身分や職業に属さず,〈いわば,目に見えぬ,無〉とすべきである,とされる。法曹貴族身分に属していたモンテスキューの思想は,君主の権力の拡大を抑制し,貴族の地位を擁護する意味をもつものであったが,立法・執行(行政)・裁判(司法)という彼の三権分立の定式は,そのような特定的な意義をはなれて,やがて近代憲法史のなかで,大きな影響を発揮することとなる。
権力の集中,すなわち独裁を否定するという意味では,権力分立思想は,一貫して近代憲法の正統的原理でありつづけている。しかし,具体的な制度論の場面では,そのあらわれ方はきわめて多様であり,そうであるだけにまた,権力分立という標語ないしシンボルの演ずる役割の具体的意味も,状況に応じて変わってくる。
アメリカおよびフランスの市民革命期には,権力分立というシンボルは,執行権に対する制約を意味すると同時に,急進的民衆支配に対する抑制をも意味した。1788年アメリカ合衆国憲法は,それに先立ついくつかのState(州)の憲法とは対照的に,〈立法部優位の弊害〉を説く思想を背景として権力分立を強調した。この憲法は,連邦議会(1条),大統領(2条),連邦司法部(3条)の順で三権分立の機構を定め,連邦と州の関係での権力分立という要素を含めて,権力分立のひとつの典型的制度化を示していた。1791年フランス憲法が,立法府と国王と裁判所の間の三権分立を制度化したときも,君主権力への拘束と同時に,やがて1793年憲法というかたちで登場してくることになる立法部優位および直接民主主義的制度に対する関係でも,抑制的役割をはたすことが期待されていた。その後,近代憲法が確立していく過程では,多かれ少なかれ議会の優位が貫かれるようになると,そのような制度を説明する用語として権力分立という言葉が積極的に使われることはむしろ少なくなる。たとえば,19世紀イギリスで確立した,議会優位型の議院内閣制についてW.バジョットは,《イギリスの国家構造》(1867)のなかで,立法権と行政権の〈融合〉を論じ,〈内閣は下院の一委員会,ただしみずからを任命した議会を解散できる委員会〉と表現した。他方,19世紀後半から20世紀にかけてのドイツで,内閣の対議会責任制度すなわち議院内閣制の導入を唱えるParlamentarisierung(議会制度化)の要求が出されるようになったとき,そのような進展をおしとどめようとする側がGewaltenteilung(三権分立)のシンボルを援用したのであった。のちに第2次大戦後のヨーロッパで,独裁制によって否定された議会制が復活したときも,議会,とりわけ下院の優位が強調され,権力分立というシンボルが掲げられることは少なかった。それに対し,今日,さまざまの次元での権力分立を説くことの意義が,ふたたび強く意識されるようになってきている。
近代憲法確立期の統治構造が多かれ少なかれ議会優位の制度となっていたときに前提とされていたのは,国民生活への不介入を原則とするいわゆる消極国家であったが,今日の国家は,福祉国家ないし積極国家として,社会・経済生活にさまざまの仕方で介入するものとなっており,国家機能の拡大と強化は,行政権の役割の強化となってあらわれる。行政・立法両機構の関係についての憲法上の枠組みとしては,(1)議会のみに責任を負う内閣が行政権の担い手となり,君主ないし大統領は名目的な権能しかもたない,議会優位型の一元主義的議院内閣制(イギリス,ドイツ),(2)公選大統領と議会が対峙し,大統領によって任命される内閣が議会に責任を負う,二元主義型の議院内閣制(フランス),(3)行政府の対議会責任の制度がなく,大統領と議会の地位および権能が分離されている大統領制(アメリカ合衆国)などの諸類型があり,(1)よりは(2),(2)よりは(3)が,権力分立の要素をより強調したものとなっている。しかし,これらの制度の機能に着目すると,制度の枠組みがどのようなものであれ,議会の多数派と行政府が与党の存在によって緊密に結びつけられ,しかもその際,行政府の首長が選挙民によって実質上直接に指名され,民意による正当化を獲得できている場合には,行政府はそれだけ強力なものとなりうる。
フランスの大統領は制度上も直接に公選され,アメリカの大統領は,大統領選挙人の選挙というかたちをとりながら実質上は有権者自身により選出されており,イギリスやドイツでは,下院ないし連邦議会議員の選挙が,その結果として多数党の党首を首相の座につける事実上の首相公選という意味を帯びているのである。行政府がそのような選挙民意思による正当性の調達ができない状況のもとでは,行政府は弱体ないし不安定となるが,その際には,官僚制部門の力が相対的に強くなり,行政に対する議会側のコントロールが効果的に及ばない点では変わらないこととなる。
議会多数派と一体となった行政権の強大化に対しては,立法権と行政権の制度上の関係の次元をこえて,政党の存在を視野にとり入れた,実質的な権力分立論が唱えられる。与党の統治機能に対する野党の批判・抑制機能の分立,また,与野党間の政権交代による権力分立という視点がそれである。ただし,政党間の権力分立が機能するためには前提条件があり,一方では,政権交代の現実的可能性を支えるだけの一定の同質的基盤が政党間に成立していなければならず,他方では,与野党が選挙民への日常利益の供給に埋没して争点を提示できないまでに同質化してしまったのでは,それらの間の権力分立を語ることはやはりできなくなってしまう。政党間の権力分立という視点のほかに,連邦制や地方自治制を担い手とする,中央権力に対する権力分立の意義が再評価され,とくに基礎的自治単位での市民参加の役割を強調する見方がある。
なお連邦制のもとでは,各邦代表機関としての上院が独自の役割をはたすが,そのような連邦制型両院制にかぎらず,両院制の権力分立的役割が見直され,かつては民主主義の立場から〈無用か,それとも有害〉といわれた上院が,国民意思を多次元的に反映する場としての期待が寄せられる。そのほか,北欧とりわけスウェーデンに起源をもつオンブズマンの制度の系譜をひいて,多かれ少なかれ独立した機関に行政の監察・抑制の役割を託す制度(ドイツの国防受託官,イギリスの議会コミッショナー,フランスの調停官)がつくられている。
立法権と行政権のあいだで権力分立が作動しがたくなるのに対応して,政治部門から独立の保障を与えられた司法部(行政裁判所や憲法裁判所が司法裁判所と別系列に組織されている国については,それらを含めて,裁判部門といったほうがよいであろう)の役割への期待が大きくなる。こうして,政治部門に対する裁判部門の権力分立という視点が強調され,裁判所が単に〈制定法を語る口〉ではなく,法創造作用をはたすことをも含めて,公共政策の形成に積極的に関与すべきこと,また,違憲審査権の積極的な行使によって,政治部門への抑制機能を演ずべきことが期待されるようになる。ただし,そのような期待に対しては,選挙民と直結することのない裁判所が,民意を背景とする政治部門への抑制機能をどこまで積極的にひきうけるべきかについて,対立が生ぜざるをえない。この点については,裁判部門は〈投票箱と民主制の過程〉を尊重すべきだが,そうであればこそ,そのような過程そのものを阻害するにいたるような立法府の行為--たとえば表現の自由を制限し,投票権の平等を侵害する立法--に対しては,積極的に抑制機能を発揮すべきだという考え方が,アメリカ合衆国での違憲審査制の経験のなかで,一定のコンセンサスを得てきたといえる。
これらは,国家機関すなわち政治的権力をめぐる場での権力分立の問題であるが,よりひろく,社会学的次元での権力分立的発想がある。文化的多元性の主張を含めた地域主義の思想や運動はそのひとつのあらわれであるし,管理社会化の傾向に対して,自主管理autogestionを説く主張も,そうした問題意識とつながるものをもっている。とりわけ,政治権力に対して自由を確保するために政治権力を分立させるという,古典的な権力分立論と対照させるとき,社会的権力についての権力分立という発想が,重要な意味をもつ。巨大集団などの社会的権力は,それ自体としては私的存在であるが,それが権力である以上,自由に対する抑圧要因であるが,それと同時に,権力分立の担い手となることによって,政治権力を抑制し,自由の確保に貢献しうるという二面性をもつ。与野党間の権力分立という視点はすでに,政治権力と社会的権力の問題次元にまたがっているし,しばしば第4の権力と形容されるマス・メディアが,社会的権力を組み入れた権力分立論のひとつの典型的な適用例となる。ただし,野党やマス・メディアを権力分立の担い手として位置づけ,それらの公的機能を重視する考え方は,しばしば,それらの地位を国法上公的に承認し国庫援助を与えるのとひきかえに法的枠づけを加えるという主張と結びつくが,そのような方向は,かえって政治権力と社会的権力の分立でなく結合を促進し,社会的権力分立というねらいに反するものとなる可能性がある。
社会主義諸国の統治機構の原理としては,権力分立でなく,権力の民主的集中の原則が掲げられる。旧ソ連についていえば,ソ連邦最高ソビエトが〈国家権力の最高機関〉(1977年憲法108条)とされており,実質上は,立法と執行の両面にわたる重要な権能をもつソ連邦最高ソビエト幹部会(119条)の役割が重要であった。第三世界諸国では,多くの場合,執行権(大統領)への権力集中の傾向がいちじるしく,アメリカ流の大統領制と区別して,とくに大統領主義presidentialismと呼ばれることもある。
執筆者:樋口 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
国家権力を複数の統治機関に配分し、権力相互間における抑制・均衡によって政治を行う統治方式。国家権力が特定の統治機関や個人に集中して専制化することを防止するのを目的とする。モンテスキューが『法の精神』(1748)のなかで立法・司法・行政間の権力分立を説いて以来、権力分立といえばただちに三権分立という語が思い浮かぶほどに、権力分立の思想と制度は今日ほとんどの現代国家において定着している。つまり権力分立の思想は、フランス『人権宣言』の「権利の保障が確保されず、権力の分立が確立されていないすべての社会は憲法をもつものとはいえない」(第16条)という文言(もんごん)にもみられるように、人権保障の思想とともに、近代民主政治におけるもっとも基本的な思想原理と考えられているのである。
[田中 浩]
権力分立の思想は、遠くは古代ギリシアにおいて、王政・貴族政・民主政という3種類の政治制度を混合して最善の国家を構想したアリストテレスの考えのなかに早くもその萌芽(ほうが)形態がみられる。しかし、近代的な意味での権力分立思想の起源は、絶対君主の権力増大に対抗して身分制議会が設立された中世ヨーロッパ、とくに13世紀末以降のイギリスにおける政治的実践のなかに求めることができよう。すなわち、イギリスでは、国王は議会の制定した法律を尊重しつつ統治しなければならない、という政治運営の方式を徐々に確立していくことによって、王権と議会権力との間の抑制・均衡に基づく協働統治という観念がしだいに形成されていった。しかし、17世紀に入ってスチュアート朝の諸王が、フランス国王に倣って王権の拡大強化を目ざし、王権と議会権力の均衡を破壊しようとしたときに史上初の市民革命(ピューリタン革命)が勃発(ぼっぱつ)した。以後、イギリスでは、王権と議会権力との均衡統治を保持すれば足りるとする中世的政治観にかわって、国民主権の原理に基づく統治機構論が登場し、権力分立論もこの新しい民主的政治制度論の一環として論議されることになったのである。
[田中 浩]
民主的な権力分立論はイギリスの思想家ハリントンによって最初に定式化された。彼は主著『オシアナ』(1656)のなかで、150の地区から全国民的規模によって選出される二つの代議院の設立を提案している。もっぱら法案を提出するだけの院(The Senate)と、もっぱら提出された法案を議決するだけの院(The People)がそれである。彼が二つの院の権限を厳格に分離したのは、当時のイギリス議会が有産者層からだけ代表者を選出し、しかも彼らは議会で法案を提出しかつ議決するため、結局のところ議会は特殊利益を実現している、ということに対する批判に基づくものであった、といえよう。普通選挙制が実施されている現代国家においても、もしも長年にわたって多数党が政権を独占し続けると、ハリントンが恐れたような事態が発生しかねないことを考えれば、ハリントンの提案は今日でも一考に値するものといえよう。このほかハリントンは、代議員はくじ引き(バロット)で選ばれ、代議員と官吏は2年交替(ローテーション)にすべきであると主張している。この方式は、ギリシア時代のやり方を模倣したものであり、現代のような巨大かつ複雑な仕組みをもつ国家においてはただちに採用するわけにはいかないが、金権政治や経済的利害と官吏との癒着を排除することを目ざしたものであるという点からみると、一種の権力分立論といえよう。
[田中 浩]
ハリントンの提案には聞くべきものが多いが、イギリスでは長年にわたって議会が発達してきたので、結局、名誉革命(1688)後のイギリスの民主政治は、国王と議会の権力分立という形で進行した。ロックはその著『政治二論』(1690)において、立法権をもつ議会と行政・同盟(外交)権をもつ国王との権力分立論を主張している。しかしこの場合、市民革命前の権力分立論と異なるのは、ロックが、議会と国王との間に矛盾が生じれば、議会の権力が国王の権力に優位するとした点である。ロックのこの考え方はその後イギリスにおいて、政府は議会の信任によってのみ存続するという議院内閣制へと結実していくことになる。ところで、立法・司法・行政の間の三権分立を明確化したのはフランスのモンテスキューであった。以後、権力分立は中央統治機関の間の三権分立と同一視されるまでになったが、現在では、さまざまな政治の仕組みのなかで権力分立制が応用されている。
[田中 浩]
前述したように権力分立はまずイギリスの政治のなかで適用された。ここでは、政府の行う政治が国民の利益に合致しないと思えば、議会は政府に不信任決議を突きつけることができ、他方、政府も議会を解散する権限を行使してこれに対抗できるから、議会と政府の間に抑制・均衡の関係が成立しているといえよう。しかし、議院内閣制においては、議会内多数党が政権を担当するので、議会と政府との関係は、分立というよりもむしろ融合関係にあるともいえる。
三権分立をもっとも厳格に守っているのはアメリカの政治制度である。イギリス人は、議会が中心となって絶対君主を打倒したので、議会に対する信頼感が強い。しかしアメリカ人は、独立戦争までの数年間、本国の国王だけでなく議会からもさまざまな抑圧を受けたとして、議会の専制化をも恐れたのである。そこで、立法部と行政部との間の権力分立はもとより、司法部に違憲立法審査権を与えることによって立法部と行政部の行動をチェックさせる方式を採用したのである。アメリカでは、大統領は国会議員とは別の方式で選挙され、また彼の内閣の長官(大臣)たちは議員以外から選ばれる。大統領や内閣には法案提出権もなければ解散権もない。ただ「教書」を通じて望ましい立法や政策の立案を勧告するにとどまる。もしも、大統領の意に添わない法律や政策が決定されそうなときには大統領は「拒否権」を発動できるが、議会が3分の2以上の多数で再議決すれば、法律案の可決を阻止することはできない。こうした厳格な権力分立の考え方はハリントンの思想に学ぶことが多かったと思われ、事実、アメリカ独立の父ジェファソンは『オシアナ』を熱読していたといわれている。
ところで、アメリカにおいては、単に中央統治機関内部の間だけでなく、中央と地方との関係についても権力分立的性格が色濃く反映している。大統領は全国家的統一という観点から必要と思われる権限(列挙権限)をもつほかは、各州の政治は各州に任せ、州の独立性がきわめて強い。各州には議会、政府のほか最高裁判所まであり、州ごとに憲法、民法、刑法などもある。この点、日本の地方自治とはかなり性格を異にすることがわかる。
戦前の日本では、帝国議会、内閣、裁判所が設けられ、それぞれその権力を行使していたが、統治権は天皇が総攬(そうらん)するとなっていたので、三権分立も結局は形式的なものにすぎなかった。すなわち、帝国議会は天皇の立法の仕事を協賛するものとされ、明治憲法には議院内閣制に関する明文規定はなく、このため、大正後期から昭和初期にかけて一時期、政党内閣制が出現したものの、日本の政治の大半は、藩閥、官僚、軍閥内閣の支配下にあった。司法部は比較的独立性を保っていたとはいえ、憲法上は「天皇ノ名ニ於(おい)テ」裁判を行うものとされていた。このように国民主権の原理がないところでは、権力分立も民主政治を実現する目的を達しえないのである。しかし戦後の日本国憲法においては、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関」(41条)、「行政権は、内閣に属する」(65条)、「すべて司法権は、最高裁判所及び……下級裁判所に属する」(76条)と規定され、民主政治を保障する三権分立制が確立された。とくに司法部については、アメリカ型の違憲立法審査権が裁判所に与えられ、また地方政治についても、憲法の第8章において地方自治を明記し、かつての中央集権的政治から地方分権的な民主政治を進める方向が確立された。
[田中 浩]
権力分立制に対する批判としては社会主義とファシズムがある。社会主義によれば、資本主義国家における政治制度は、結局は有産者ブルジョアジーの利益擁護のためにつくられたものとみる。したがって、社会主義革命が成功したときに、既存の政治制度をいっさい廃棄して、国民の大半を占める労働者・農民を中心とするまったく新しいタイプの権力機関をつくることとなった。このモデルが旧ソビエト連邦や中国の政治制度である。ここでは、資本主義国家にみられるような自由な立候補制はなく、候補者は各地区の党機関・組合・文化団体などから推薦され、また複数以上の政党による政権交替という政治運営の方式もなく、共産党一党が指導する。このため、資本主義国家の側からは独裁制であるとの非難がなされているが、社会主義国家の側では、このような政治制度こそ真に国民の利益を代表できる組織であるとして、それを「民主集中制」という名でよんでいる。
しかし、旧ソ連でも歴史上「スターリン体制」といわれたような官僚主義的独裁制が出現したこともあり、また東欧社会主義諸国においては自主管理をめぐって政府と国民との間に対立がみられたこともあったことからもわかるように、中国など現存社会主義諸国における権力と自由の関係、自由化をめぐる問題が、今後とも改善・解決を迫られる重要問題であることは間違いない。また、先進資本主義諸国の共産党は、現在では既存の政治制度をまったく否定するという立場を修正し、国民代表機関である議会を中心に社会主義への転換を目ざし、複数政党制の存在も認めるようになってきている。
他方、1920、30年代に出現したイタリア、ドイツ、日本などのファシズム国家は、西欧列強と対抗し、旧ソ連社会主義からの脅威を排除する目的で権力集中型の政治体制をつくり、そのために国民の自由や人権を厳しく抑圧し、議会、政党、組合などの民主的な政治制度をいっさい否定した。しかし、第二次世界大戦の敗北によってファシズム国家は崩壊し、これらの国々も新しく民主主義国家として再出発した。
[田中 浩]
現代国家は、ホッブズやロックの時代と異なり、国家の役割はきわめて複雑化・専門化し、したがって国家の権力もますます強大化しつつある。このため、各国において民主政治を実現するためには、単に中央統治機関における三権分立や中央と地方との間の権力分立を憲法上保障するだけではもはや十分なものとはいえない。権力分立の精神を実現するうえでもっとも重要だと思われることは、国民の間に民主的な精神が広範に育成され、それを基礎に政治のすみずみにわたって民主的な制度や政治運営のルールを組み立てることであり、また情況の変化に応じて絶えず柔軟に制度を組み替える知恵と勇気が必要とされるということである。
[田中 浩]
『田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』
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