北畑村
きたばたむら
[現在地名]鈴鹿市西庄内町
南畑村の北東にあり、前に源明川、背後に八島川が流れる。近世、南畑村・上野村とともに畑三郷といい、文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳にも「畑三郷」八二七・二七石と記される。文禄三年(一五九四)九月一日、遠州掛川城主山内一豊が豊臣秀吉から、伊勢鈴鹿郡三ヵ村のうちで一千石を加増されたが、そのうちの一村である。その知行目録(九月二一日付)に、「一弐百弐拾壱石八斗弐升 北畑村」とある。江戸時代に入って亀山藩領となるが、元和元年(一六一五)から幕府領となり、寛永一三年(一六三六)本多俊次入部以後、再び亀山藩領となる。延宝四年(一六七六)の家数四三(うち本役二八・無役一五)、人数三〇一、馬一七、牛一五。
北畑村
きたはたむら
[現在地名]北区淡河町北畑
美嚢郡に属する。淡河川中流右岸の山間に位置し、西は南僧尾村。文和二年(一三五三)二月一日の平政氏田畠寄進状(石峯寺文書)によれば、石峯寺大般若院再興料足として寄進された淡河庄野世村内の畠一段は、もと「北畑」安保左衛門尉の所領であった。永和三年(一三七七)駿河守某は北畑内にあるもと炭屋左衛門次郎の所領であった一段の田地(五斗代)を、子息の菩提を弔うために同寺西金堂常行三昧衆僧膳米料足田として寄進している(一二月日「駿河守某田地寄進状」同文書)。微考録(同文書)によれば、同寺金堂に淡河庄北畠村仁兵衛・同長左衛門母が各々幡二旒を寄進している。
北畑村
きたばたむら
[現在地名]日野町北畑
南北の蔵王村の北、綿向山の西麓に位置する。大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)が兄市辺押磐皇子を殺した「来田綿の蚊屋野」(「日本書紀」雄略天皇即位前紀)を当地に比定し、地名はこの来田綿が変化したとする説がある。しかし、綿向山を神体とする綿向神社(現村井の馬見岡綿向神社)の氏子圏を限る名称として、南東にある熊野村、南北の蔵王村および当村を合せて三畑と称しており(馬見岡綿向神社文書)、この三ヵ村で当地が最も北にあることに由来するとの説もある。
北畑村
きたはたむら
[現在地名]東灘区本山北町二―六丁目・本山中町四丁目・本山南町三丁目・同八―九丁目・本山町北畑
田辺村の東、六甲山地南麓緩斜面の山麓寄りに立地する。領主の変遷は郡家村と同じ。慶長国絵図に村名がみえ、高三〇五石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では高三〇七石余。正保郷帳でも同高。享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調では高三〇九石余。天保郷帳では高三〇九石余。
北畑村
きたばたむら
[現在地名]新旭町北畑
藁園村の西、堀川村の南、新庄村の北にある。北端とも記す。もとは新庄村の北端ゆえに村名としたという。枝郷に西川原がある。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)の「新庄十郷」のうちに「北はた 河原市」とあり、高九一〇石余。寛永石高帳に北端村とあり、高九六四石余、うち四〇六石余は大溝藩領、五五七石余は膳所藩領。慶安高辻帳では大溝藩領は田方三七五石余・畑方一一石、永荒一九石余、膳所藩は田方五一五石余・畑方一五石余、永荒二六石余。
北畑村
きたはたむら
[現在地名]三木市口吉川町殿畑
桾原村の東、美嚢川中流域に位置する。南東は志殿村。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となるが、寛永九年(一六三二)に上知されたとみられる(「寛政重修諸家譜」など)。正保郷帳に村名がみえ、幕府領で、田方二一一石余・畑方四七石余。元禄郷帳には「徳平北畑村」とあり、高二四八石余。享保一五年(一七三〇)から寛保二年(一七四二)までは大坂城代土岐氏領(享保一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書など)。
北畑村
きたはたむら
[現在地名]宝塚市切畑
南畑村の北側、古宝山の東の盆地に位置する。川辺郡に属し、古くは南畑村と合せて切畑村と称した(→南畑村)。正保郷帳では南北に村切され、北畠村高七五石余。北切畑村とも称し、村切後も南畑村と合せて切畑村と称した。天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では本村高七五石余・新田高二石余。元禄国絵図(内閣文庫蔵)には「南北畑村ノ内北畑新田」がみえる。
北畑村
きたばたむら
[現在地名]作手村清岳
川合村の北。額田郡宮崎村(現額田町)から権田某が来て開いた村と伝える。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)より幕府領、安永六年(一七七七)より旗本鍋島直賢の知行地となり幕末に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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