切畑村(読み)きりはたむら

日本歴史地名大系 「切畑村」の解説

切畑村
きりはたむら

[現在地名]那賀町切畑

葛城山南山麓一帯と、そこより南流する(現重谷川)の流域を占める南北に細長い村で、集落の中心は江川が平地に出た村域南端に位置する。北は葛城(和泉)山脈を境に和泉国、東は平野ひらのしもの両村、南は江川中えがわなか村に接する。「続風土記」は「山中にて平地なく、高き処を平かにして畑となし、一枚つゝ切れたる畑のみなる故切畑の名あり」と記す。切畑とはかつて焼畑が行われた所ともいわれ、当村も古くは焼畑農耕が盛んであったと考えられる。地名は正和二年(一三一三)一二月二八日付の大法師賢栄御影堂陀羅尼田寄進状(続宝簡集)に「今切畑一万作」とみえる。

中世は高野山名手なて庄内で、西野山にしのやま・江川中・切畑の三ヵ村を併せて江川村(江河村)とよばれていた(→江川中村

切畑村
きりはたむら

[現在地名]豊能町切畑

能勢のせ郡に属し、木代きしろ村の北に位置する山村。北に接する丹波国桑田くわた寺田てらだ村より南流する小川と、当村中央部より西流する小川が当村と西方余野よの村の境付近で合流し、切畑川となる。中央部を東西に銭原ぜにはら道が通る。郷帳類では一村であったが、実際には大円おおまる中野西なかのにし・中野東・西野にしのの四村に分れていた。大円にはかつて式内社走落はしりおち神社(のちの藤森神社)があり、この鎮座地を「延喜式」神名帳では島下しましも郡に記しているので、この地は古代には島下郡で、のち能勢郡になったものと思われる。中世の木代庄は木代・切畑・大円の三村よりなり、近世初頭(慶長年間)に切畑・大円両村が合併して切畑村となったと伝える(東能勢村誌・大阪府全志)

切畑村
きりはたむら

[現在地名]防府市大字切畑

横曾根よこぞね川の上流域、凌巌寺りようごんじ山北西麓から、北は吉敷よしき小鯖おさば(現山口市)境の千切ちきり峠までを村域とする村で、南は台道だいどう、東は大崎おおさき、西は吉敷郡鋳銭司すぜんじ(現山口市)の各村に囲まれる。萩藩領で三田尻宰判に属する。

慶長一五年(一六一〇)検地帳に「切畑村」として総石高五三八石余、うち田方が六四町余で四九四石余、畠方五町余で二一石余、百姓屋敷六六を記す。寛永三年(一六二六)の熊野帳では高六一二石二斗二升二合とあり、永代家老の益田元尭家の知行所となっている。

切畑村
きりはたむら

[現在地名]温泉町切畑

多子おいご村の南にある。南東の柤岡けびおか(現村岡町)から当村を経て中辻なかつじ村・塩山しおやま村を通り、寸原すんばら峠を越えてまえ村に抜ける道は山陰道の間道ともいう。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「きりはた」とみえる。江戸時代の領主の変遷は歌長うたおさ村に同じ。郡中惣高(福井家文書)では太閤検地高とみられる古高二〇一石余。元和三年(一六一七)の宮城豊盛領二方郡高帳でも高は同じで、小物成の山手米八斗四升、桑手の綿八四匁が課せられていた。

切畑村
きりはたむら

[現在地名]菰野町切畑

田光たびか村の西、福王ふくおう(五九八メートル)の南麓、朝明あさけ川の上流田光川の水源に近い山間部にあり、村の南を近江国へ通ずる八風はつぷう街道が走る。近江国境の八風峠までは約一里八町(五鈴遺響)。八風越は中世の重要な商業路であったが、地元では江戸時代においても利用されており、天保一四年(一八四三)には、田光村、近江国黄和田きわだ(現滋賀県永源寺町)とともに道普請が行われている(「道普請に付取替証文一札事」切畑区有文書)

切畑村
きりはたむら

上野かみの村の南、番匠ばんじよう川右岸に位置。地内を同川支流提内ひさぎうち川が北東流する。天正六年(一五七八)高城・耳川合戦で戦死した佐伯家中のうちに、切畑喜右衛門がいた(栂弁礼実録)。薩摩の島津家久が天正一四年一一月栂牟礼とがむれ(現佐伯市)を攻めた際、佐伯惟定は「切畑口」に防御の軍勢を差向けている(大友家文書録)。同一七年七月二八日「佐伯きりはた村」のはしざこ宗右衛門尉ら三名が、同一九年二月九日当村伝之丞がそれぞれ伊勢神宮に参詣している(「参宮帳写」後藤作四郎文書)

慶長豊後国絵図に切畑村とみえ、高一千八七石余。慶長一〇年(一六〇五)の検地目録帳(佐伯藩政史料)でも同高で、反別田六二町一反余・畑六三町九反余、免三ツ八分。

切畑村
きりはたむら

[現在地名]山形市切畑・千石せんごく寺西てらにし西越にしごし千刈せんがり豊風とよかぜこも石こもいし

上東山かみひがしやま村・下東山村の西に位置し、はら山の北山麓、高瀬たかせ川の南西岸の河岸段丘上に立地。元和九年(一六二三)の風間村の検地帳(山形県史)には「風間上切畑」「風間わき上切畑」「風間之村 但上切畑」「風間下切畑」などとみえ、風間かざま村に含まれていた。上切畑は田四町一反余・畑五町八反余、ほかに関根せきね釈迦堂しやかどう行沢なめさわの三ヵ村からの入作地九町三反余があった。

切畑村
きりはたむら

[現在地名]北区有野町有野ありのちようありの有野台ありのだい一―二丁目・同六―九丁目・東有野台ひがしありのだい一―五丁目

岡場おかば村の南、有野川中流域に位置する有馬ありま郡の村。もと岡場村・堀越ほりこし村とともに下司げし村として一括された。分村までの経緯と領主の変遷は岡場村に同じ。元禄三年(一六九〇)頃の村高は一二七石余、家数一九・人数一二二(「国絵図御取調書上写」細井家文書)。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高一六九石余で、以後大きな変化はない。農業を主とし、明治初期の皆済目録(有野村誌)に水車冥加金がみえる。

切畑村
きりはたむら

[現在地名]五泉市切畑

菅名すがな岳の北麓に位置し、北は小山田おやまだ村、東は大谷おおたに村に接する。正保国絵図に一六石余とあり、村上藩領であった。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋(大滝家文書)では笹堀組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高一一石三斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、明和二年(一七六五)の石瀬代官所村々高辻帳(北条一也氏蔵)には高二四石一斗余とあって、中川組に属した。寛政一二年(一八〇〇)の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)には高二五石三斗余とあり、笹堀組に属している。天保元年(一八三〇)沼津藩領となり、安政二年(一八五五)の沼津領村々明細書上帳(五泉郷土史)には高二五石三斗余(田高一九石七斗余・畑高五石五斗余)、反別三町三反(田一町六反余・畑一町六反余)、家数二・人数八(男六・女二)とある。

切畑村
きりはたむら

[現在地名]本宮町切畑

土河屋つちごや村の南、熊野川の東岸沿いに位置。西北部、熊野川を隔てた果無はてなし峠の麓に小名八木尾やきおがある。天文一〇年(一五四一)六月二九日付の、かり申代之事(「東牟婁郡誌」所収)に「きりはた」とみえる。慶長検地高目録によると村高三三六石余、小物成四・三一八石。三里組に属し、延宝五年(一六七七)より和歌山藩新宮領となる(新宮藩御勘定方旧記「和歌山県史」所収)。近世後期の「新宮領分見聞記」には家数六〇とあり、「山大川口より八鬼尾谷筋和州境の印森迄二十八町五十間。

切畑村
きりはたむら

[現在地名]網野町字切畑

生野内いくのうち村の西南、福田ふくだ川の最上流にある。東南は中郡、西南は山地で熊野郡に境する山間の村。

慶長検地郷村帳に高一二三・五五石「切畑村」とみえる。延宝九年(一六八一)の延高で一七九石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、同九年宮津藩領、享保二年(一七一七)以降幕府領となる。

切畑村
きりはたむら

[現在地名]君津市大戸見おおとみ

細野ほその村の北対岸、小櫃おびつ川右岸にある。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、久留里藩領。以降の領主の変遷は向郷むかいごう村に同じ。元禄郷帳では高七一石余、天保郷帳では高八九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報