精選版 日本国語大辞典 「十七条憲法」の意味・読み・例文・類語
じゅうしちじょう‐けんぽう ジフシチデウケンパフ【十七条憲法】
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聖徳太子制定と伝える日本最初の成文法。『日本書紀』推古(すいこ)天皇12年(604)4月戊辰(つちのえたつ)条に、初めてその全文が登場する。それによると、「皇太子、親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまふ」とある。皇太子とは、聖徳太子をさす。ここにいう憲法は、近代国家のそれと違い、遵守すべき道徳的規範に近い。すべてで17条からなる漢文体形式の憲法には、儒家・法家・道家、それに仏教の思想が盛り込まれており、中国古典を間接・直接に採用しながら、君・臣・民の上下秩序がさまざまな観点から説きほぐされている。とりわけ、臣のあり方に力点が注がれて、中央豪族の新たな心得を諭(さと)した観が強い。
しかし、この憲法には、なお問題も多い。制定年では、推古天皇13年(605)7月(『上宮(じょうぐう)聖徳法王帝説』)とか、推古天皇10年(602)12月(『一心戒文』)とする異説がみられる。一方、推古天皇12年は甲子(かっし)年なので、讖緯(しんい)思想に基づく甲子革令の説を受けて制定されたとする見解もある。17の数に陰陽思想をみいだす試みも行われている。
はたして、7世紀初頭における聖徳太子の真撰(しんせん)かどうかも、確固とした定説があるわけではない。12条目の「国司」は、最近の木簡研究からみて、やはり大宝令(たいほうりょう)(701)以後に使用され始めたことばである可能性があって、後の書き換えをうかがわせる。しかし、これをもって、全文を後の偽作と断定することもできない。内容からみて、すべてを大宝令以後、もしくはその直前の作為とするには無理があり、その原形は推古朝(592~628)に成立したとみるのがやはり妥当であろう。推古朝の遺文にふさわしいともいわれている。しかし、『日本書紀』に引用されて今日に伝わる全文と、その原形(推古朝の遺文)とをどのように区別するかは、これからの課題になろう。聖徳太子の真撰かどうかは別にしても、推古天皇8年(600)に初めて遣隋使(けんずいし)を送った倭(やまと)王権が、中国の先例(西魏(せいぎ)の二十四条新制・十二条新制、北周の六条詔書、北斉の五条詔書など)に倣って、中国風の道徳的規範を制定することに迫られ、国内の中央豪族をはじめとして、隋や朝鮮三国(高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら))にまでそれを誇負(こふ)することをねらったものと思われる。それが、おそらく十七条憲法の原形をなそう。17の数については、西域(せいいき)やインドを含めた世界史的観点からの検討が、これからなされなければなるまい。ただし、当時、この憲法が国内でどれほどの効果を発揮したかは、すこぶる疑わしい。むしろ、対外的な効力を評価すべきかもしれない。にもかかわらず、7世紀後半からの天皇制律令国家形成にあたって、その先取り的な意味をもっていたことは結果的に認められてよい。後代に及ぼした影響も大きい。摂関家の政治の一つのよりどころになったり、武家社会の御成敗式目(ごせいばいしきもく)、建武(けんむ)式目、公家諸法度(くげしょはっと)などにも、影響がみられる。
[新川登亀男]
『『聖徳太子全集 第1巻 十七条憲法』(1942・龍吟社)』▽『『日本書紀 下』(『日本古典文学大系68』1965・岩波書店)』▽『『聖徳太子集』(『日本思想大系2』1975・岩波書店)』▽『坂本太郎著『聖徳太子』(1979・吉川弘文館)』▽『田中嗣人著『聖徳太子信仰の成立』(1983・吉川弘文館)』
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…日本人の漢文習得に渡来人の果たした役割は大きいが,日本人が本格的に漢文を習得した痕跡があらわれるのは推古朝である。すなわち,聖徳太子の十七条憲法《三経義疏(さんぎようぎしよ)》などがその成果である。また,この時期にはじまる遣隋使(のちには遣唐使)などは,組織的な漢文受容として大きな役割を果たした。…
…石母田はこの段階での法を,国造法と称している。聖徳太子が制定した十七条憲法は,上記のような王法の一つの到達点を示すものである。この憲法は,ヤマト朝廷を構成する諸豪族および服属した国造等のみでなく,国造治下の〈百姓〉〈公民〉をも,人格的臣従関係に基づいて王権のもとに編成しようとした,組織規範であった。…
…この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,《天皇記》《国記》以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。 しかし太子は若くして高句麗僧慧慈(えじ)に仏典を,博士覚哿(かくか)に儒学等の典籍を学び,その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。…
…任那(加羅)の回復をめざして新羅と敵対していた倭は,隋との外交を開くことによって新羅に対する立場を有利にすべく,約1世紀間中絶していた中国王朝との外交を再開し,600年(推古8)に使節を隋の都に送った。 この600年の遣隋使について《日本書紀》は何も記していないが,この遣使のあと,603年に冠位十二階,604年に十七条憲法が制定され,607年に小野妹子を大使とする本格的な遣隋使が派遣されているので,600年の遣隋使が長安の都で受けた政治的・文化的なショックが,推古朝の国政改革の重要な契機となった可能性が強い。十二階の冠位の制定も,国内的な要因によるだけでなく,遣隋使の威儀を正し,その使節の地位を明示するためでもあったと推定される。…
…ラテン語でもprivationemは〈本質を奪い去られた存在〉のことであり,publicanusは〈税金を納める農民〉を意味していた。したがって,〈私に背き公に向うは,是れ臣の道なり〉(聖徳太子《十七条憲法》)以来,公と私の対立は,その実質において上下の対立だったのであり,公は君主の利害を意味し,私は臣民の実質的利害を意味していた。そして,〈己を滅した真の奉仕,この奉公の生活以外に,私生活と称すべきものは存しない〉(《臣民の道解説大成》1942)に象徴されるように,滅私奉公は日本人の意識の一つの基軸となってきた。…
※「十七条憲法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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