一(ひとつ)に曰(い)はく、和(やわらか)なるを以(もち)て貴(とうと)しとし、忤(さから)ふること無(な)きを宗(むね)とせよ。人(ひと)皆(みな)党(たむら)あれど、亦(また)達(さと)る者(ひと)少(すくな)し。是(ここ)を以て、或(あるい)は君(きみ)父(かぞ)に順(したが)はず、乍(また)隣里(さととなり)に違(たが)ふ。然(しか)れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事(こと)を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、事理(こと)自(おの)づからに通(かよ)ひ、何事(なにごと)か成(な)らざらむ。
二(ふたつ)に曰はく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬(うやま)へ。三宝とは、仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(きょくそう)ぞ。何(いずれ)の世(よ)、何(いずれ)の人(ひと)か、是(こ)の法(みのり)を貴(とうと)びずあらむ。人尤(はなはだ)悪(あ)しきもの鮮(すくな)し、能(よ)く教(おし)ふるをもて従(したが)ふ。其(そ)れ三宝に帰(よ)りまつらずは、何(なに)を以てか枉(まが)れるを直(ただ)さむ。
三(みつ)に曰はく、詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必(かなら)ず謹(つつし)め。君をば天(あめ)とし、臣(やつこらま)をば地(つち)とす。天覆(おお)ひ地載(の)すときには、四時(よつのとき)順行し、万気(よろずのしるし)通(かよ)ふこと得(う)。地、天を覆はむとするときには、壊(くず)れを致(いた)さむぞ。是を以て、君言(の)たまへば臣承り、上(かみ)行(おこな)へば下(しも)靡(なび)く。故(かれ)、詔を承りては必ず慎(つつし)め、謹まずは自づからに敗(やぶ)れなむ。
四(よつ)に曰はく、群卿(まえつきみたち)百寮(つかさつかさ)、礼(いやび)を以て本(もと)とせよ。其(そ)れ民(おおみたから)を治(おさ)むるが本、要(かなら)ず礼に在(あ)り。上礼なきときには、下斉(ととのう)らず、下礼無きときには、必ず罪(つみ)有り。是を以て、群臣(まえつきみたち)礼有るときには、位(くらい)の次(ついで)乱(みだ)れず、百姓(おおみたから)礼有るときには、国家(あめのした)自づからに治る。
五(いつつ)に曰はく、餮(あじわいのむさぼり)を絶(た)ち、欲(たからほしみ)を棄(す)てて、明(あきらか)に訴訟(うたえ)を弁(さだ)めよ。其れ百姓の訟(うたえ)、一日(ひとひ)に千事(ちわざ)あり。一日すらも尚(なお)爾(しか)るを、況(いわん)や歳(とし)を累(かさ)ねてをや。頃(このごろ)訟(うたえ)を治むる者(ひとども)、利(くぼさ)を得(え)ては常(つね)とし、賄(まいない)を見(み)ては讞(ことわりもう)すを聴(き)く。便(すなわ)ち財(たから)有るものが訟は、石をもて水に投ぐるが如(ごと)く、乏(とも)しき者(ひと)の訴は、水をもて石に投ぐるに似(に)たり。是を以て、貧(まず)しき民は、所由(せんすべ)を知らず、臣の道、亦(また)焉(ここ)に闕(か)けぬ。
六(むつ)に曰はく、悪(あしき)を懲(こら)し善(よろしき)を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良(よ)き典(のり)なり。是を以て、人の善を匿(かく)すこと无(な)く、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。其れ諂(へつら)ひ詐(あざむ)く者は、国家を覆(くつがえ)す利(と)き器(うつわ)なり、人民(おおみたから)を絶(た)つ鋒(と)き剣(つるぎ)なり。亦佞(かだ)み媚(こ)ぶる者は、上に対(むか)ひては好(この)みて下の過(あやまち)を説(と)き、下に逢(あ)ひては上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。其れかくの如き人、皆君に忠(いさおしさ)无く、民に仁(めぐみ)无し。是大きなる乱(みだれ)の本なり。
七(ななつ)に曰はく、人各(おのおの)任(よさし)あり、掌(つかさど)ること濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲(さかしひと)官(つかさ)に任(よさ)すときには、頌(ほ)むる音(こえ)則ち起(おこ)り、姧(かだま)しき者(ひと)官を有(たも)つときには、禍(わざわい)乱(みだれ)則ち繁(しげ)し。世に生れながらにして知るひと少し、剋(よ)く念(おも)ひて聖(ひじり)と作(な)る。事に大きなり少(いささけ)きこと無く、人を得ては必ず治り、時に急(と)き緩(おそ)きこと無く、賢(さかしひと)に遇ひては自づからに寛(ゆるるか)なり。此に因りて、国家永く久しく、社稷(くに)危(あやう)からず。故、古の聖王(ひじりのきみ)、官の為に人を求め、人の為に官を求めず。
八(やつ)に曰はく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。公事(おおやけのわざ)盬靡(いとな)く、終日(ひねもす)尽(つく)し難(がた)し。是を以て、遅(おそ)く朝るときは急(すみやけ)きことに逮(およ)ばず、早く退づるときは必ず事尽きず。
九(ここのつ)に曰はく、信(まこと)は是義(ことわり)の本なり、事毎(ことごと)に信有るべし。其れ善悪(よさあしさ)成敗(なりならぬこと)、要ず信に在り。群臣共に信あらば、何事か成らざらむ、群臣信无くは、万の事悉(ことごと)くに敗れむ。
十(とお)に曰はく、忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて、人の違(たが)ふことを怒(いか)らざれ。人皆心有り、心各(おのおの)執(と)れること有り。彼(かれ)是(よみ)すれば我(われ)は非(あしみ)し、我是すれば彼は非す、我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず、彼必ず愚(おろか)に非ず、共に是凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あし)き理(ことわり)、詎(たれ)か能(よ)く定(さだ)むべけむ。相共(あいとも)に賢(かしこ)く愚なること、鐶(みみかね)の端(はし)なきが如し。是を以て、彼(かの)人瞋(いか)ると雖(いえど)も、還(かえ)りて我が失(あやまち)を恐れ、我独り得(え)たりと雖も、衆(もろもろ)に従ひて同じく挙(おこな)へ。
十一(とおあまりひとつ)に曰はく、功(いさみ)過(あやまり)を明(あきらか)に察(み)て、賞(たまいもの)し罰(つみな)ふること必ず当(あ)てよ。日者(ひごろ)、賞は功に在(お)きてせず、罰(つみなえ)は罪に在きてせず。事を執れる群卿、賞し罰ふることを明(あきら)むべし。
十二(とおあまりふたつ)に曰はく、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓に斂(おさめと)らざれ。国に二(ふたり)の君非ず、民に両(ふたり)の主(あるじ)無し。率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)は、王(きみ)を以て主とし、所任(よさせ)る官(つかさ)司(みこともち)は、皆是王の臣なり。何をもてか敢(あ)へて公(おおやけ)と百姓に賦斂(おさめと)らむ。
十三(とおあまりみつ)に曰はく、諸(もろもろ)の官に任(よさ)せる者(ひと)、同じく職掌(つかさこと)を知れ。或は病(やまい)し或は使(つかい)するときに、事に闕(おこた)ること有らむ。然れども知ること得る日には、和(あまな)ふこと曽(むかし)より識(し)れる如くせよ。其れ与(あずか)り聞(き)かずといふことを以て、公の務(まつりごと)を防(さまた)ぐることなかれ。
十四(とおあまりよつ)に曰はく、群臣百寮、嫉(うらや)み妬(ねた)むこと有る無(なか)れ。我既(すで)に人を嫉むときには、人亦我を嫉む。嫉み妬む患(うれい)、其の極(きわまり)を知らず。所以(このゆえ)に、智(さとり)己(おのれ)に勝(まさ)るときは悦(よろこ)ばず、才(かど)己に優(まさ)るときは嫉み妬む。是を以て、五百(いおとせ)にして乃今(いまし)賢(さかしひと)に遇ふも、千載(ちとせ)にして一(ひとり)の聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。其れ賢聖を得ずは、何を以てか国を治めむ。
十五(とおあまりいつつ)に曰はく、私(わたくし)を背(そむ)きて公に向(おもむ)くは、是臣が道なり。凡(すべ)て人私有るときには、必ず恨(うらみ)有り、憾(うらみ)有るときには、必ず同(ととのう)らず。同らざるときは、私を以て公を妨げ、憾起るときは、制(ことわり)に違ひ法(のり)を害(やぶ)る。故、初(はじめ)の章(くだり)に云はく、上下(かみしも)和(あまな)ひ諧(ととのう)れ、といへるは、其れ亦是の情(こころ)なるかな。
十六(とおあまりむつ)に曰はく、民を使(つか)ふに時を以てするは、古の良き典なり。故、冬の月に間(いとま)有らば、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでに、農(なりわい)桑(こかい)の節(とき)なり、民を使ふべからず。其れ農せずは何をか食(くら)はむ、桑せずは何をか服(き)む。
十七(とおあまりななつ)に曰はく、夫(そ)れ事は独り断(さだ)むべからず、必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし。少(いささけ)き事は是軽(かろ)し、必ずしも衆とすべからず。唯(ただ)大きなる事を論ふに逮(およ)びては、若(けだ)し失(あやまち)有らむか。故、衆と相弁(あいわきま)ふるときには、辞(こと)則(すなわ)ち理(ことわり)を得(え)む。
[読下し・新川登亀男]
聖徳太子制定と伝える日本最初の成文法。『日本書紀』推古(すいこ)天皇12年(604)4月戊辰(つちのえたつ)条に、初めてその全文が登場する。それによると、「皇太子、親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまふ」とある。皇太子とは、聖徳太子をさす。ここにいう憲法は、近代国家のそれと違い、遵守すべき道徳的規範に近い。すべてで17条からなる漢文体形式の憲法には、儒家・法家・道家、それに仏教の思想が盛り込まれており、中国古典を間接・直接に採用しながら、君・臣・民の上下秩序がさまざまな観点から説きほぐされている。とりわけ、臣のあり方に力点が注がれて、中央豪族の新たな心得を諭(さと)した観が強い。
しかし、この憲法には、なお問題も多い。制定年では、推古天皇13年(605)7月(『上宮(じょうぐう)聖徳法王帝説』)とか、推古天皇10年(602)12月(『一心戒文』)とする異説がみられる。一方、推古天皇12年は甲子(かっし)年なので、讖緯(しんい)思想に基づく甲子革令の説を受けて制定されたとする見解もある。17の数に陰陽思想をみいだす試みも行われている。
はたして、7世紀初頭における聖徳太子の真撰(しんせん)かどうかも、確固とした定説があるわけではない。12条目の「国司」は、最近の木簡研究からみて、やはり大宝令(たいほうりょう)(701)以後に使用され始めたことばである可能性があって、後の書き換えをうかがわせる。しかし、これをもって、全文を後の偽作と断定することもできない。内容からみて、すべてを大宝令以後、もしくはその直前の作為とするには無理があり、その原形は推古朝(592~628)に成立したとみるのがやはり妥当であろう。推古朝の遺文にふさわしいともいわれている。しかし、『日本書紀』に引用されて今日に伝わる全文と、その原形(推古朝の遺文)とをどのように区別するかは、これからの課題になろう。聖徳太子の真撰かどうかは別にしても、推古天皇8年(600)に初めて遣隋使(けんずいし)を送った倭(やまと)王権が、中国の先例(西魏(せいぎ)の二十四条新制・十二条新制、北周の六条詔書、北斉の五条詔書など)に倣って、中国風の道徳的規範を制定することに迫られ、国内の中央豪族をはじめとして、隋や朝鮮三国(高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら))にまでそれを誇負(こふ)することをねらったものと思われる。それが、おそらく十七条憲法の原形をなそう。17の数については、西域(せいいき)やインドを含めた世界史的観点からの検討が、これからなされなければなるまい。ただし、当時、この憲法が国内でどれほどの効果を発揮したかは、すこぶる疑わしい。むしろ、対外的な効力を評価すべきかもしれない。にもかかわらず、7世紀後半からの天皇制律令国家形成にあたって、その先取り的な意味をもっていたことは結果的に認められてよい。後代に及ぼした影響も大きい。摂関家の政治の一つのよりどころになったり、武家社会の御成敗式目(ごせいばいしきもく)、建武(けんむ)式目、公家諸法度(くげしょはっと)などにも、影響がみられる。
[新川登亀男]
『『聖徳太子全集 第1巻 十七条憲法』(1942・龍吟社)』▽『『日本書紀 下』(『日本古典文学大系68』1965・岩波書店)』▽『『聖徳太子集』(『日本思想大系2』1975・岩波書店)』▽『坂本太郎著『聖徳太子』(1979・吉川弘文館)』▽『田中嗣人著『聖徳太子信仰の成立』(1983・吉川弘文館)』
7世紀初めに聖徳太子が作ったと伝える法制で,日本最初の成文法とされる。《日本書紀》推古12年(604)4月戊辰条には,〈皇太子親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作る〉として,以下に17ヵ条から成る長文の条例の文章を掲げており,これがふつう十七条憲法と呼ばれている。その内容は法制とはいっても近代の憲法や法律規定とはやや異なり,むしろ一般的な訓戒を述べたもので,当時の朝廷に仕える諸氏族の人々に対して,守るべき態度・行為の規範を示した官人服務規定ともいうべきものである。その文章は正格な漢文で,漢・魏の遺風ありとか先秦の文字に類するとかいわれる古風を存した文体であり,後周の蘇綽の六条詔書や北斉の五条の文といわれるものと,内容的に類似した点があることも指摘されているが,実際には《詩経》《尚書》《孝経》《論語》《左伝》《礼記》《管子》《孟子》《墨子》《荘子》《韓非子》などのごとき儒家,法家,老荘家その他の諸子の書,《史記》《漢書》などのごとき史書,《文選》,仏典などにわたる雑多な書籍の語句を数多く利用して,文章を構成しているから,思想上,文体上の統一性はほとんどないといってよい。またこの憲法の各条の内容をみると,誠実に服務すべきことを述べた条項(5,7,8,13,15条)が最も多く,そのほかに君主の地位を絶対視する思想を述べた条項(3,12条)もあり,すでに公地公民の理念がうかがわれるとされる条項(12条)もあるが,全般的にみて,専制君主制あるいは律令的な中央集権的官僚制への志向が明白に打ち出されているとはいいがたい。なお17という条数は陰と陽の極数の和とされている。《上宮聖徳法王帝説》はこの憲法の制定を乙丑年(605・推古13)7月としているが,岡田正之は讖緯(しんい)説に基づいて甲子年(604・推古12)に定めたものとみられるから,《日本書紀》のほうが正しいとする。また狩谷棭斎(かりやえきさい),津田左右吉などは,この憲法を《日本書紀》の撰者などがのちに偽作したものとするが,その根拠はあまり有力とはいえない。
執筆者:関 晃
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…日本人の漢文習得に渡来人の果たした役割は大きいが,日本人が本格的に漢文を習得した痕跡があらわれるのは推古朝である。すなわち,聖徳太子の十七条憲法《三経義疏(さんぎようぎしよ)》などがその成果である。また,この時期にはじまる遣隋使(のちには遣唐使)などは,組織的な漢文受容として大きな役割を果たした。…
…石母田はこの段階での法を,国造法と称している。聖徳太子が制定した十七条憲法は,上記のような王法の一つの到達点を示すものである。この憲法は,ヤマト朝廷を構成する諸豪族および服属した国造等のみでなく,国造治下の〈百姓〉〈公民〉をも,人格的臣従関係に基づいて王権のもとに編成しようとした,組織規範であった。…
…この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,《天皇記》《国記》以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。 しかし太子は若くして高句麗僧慧慈(えじ)に仏典を,博士覚哿(かくか)に儒学等の典籍を学び,その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。…
…任那(加羅)の回復をめざして新羅と敵対していた倭は,隋との外交を開くことによって新羅に対する立場を有利にすべく,約1世紀間中絶していた中国王朝との外交を再開し,600年(推古8)に使節を隋の都に送った。 この600年の遣隋使について《日本書紀》は何も記していないが,この遣使のあと,603年に冠位十二階,604年に十七条憲法が制定され,607年に小野妹子を大使とする本格的な遣隋使が派遣されているので,600年の遣隋使が長安の都で受けた政治的・文化的なショックが,推古朝の国政改革の重要な契機となった可能性が強い。十二階の冠位の制定も,国内的な要因によるだけでなく,遣隋使の威儀を正し,その使節の地位を明示するためでもあったと推定される。…
…ラテン語でもprivationemは〈本質を奪い去られた存在〉のことであり,publicanusは〈税金を納める農民〉を意味していた。したがって,〈私に背き公に向うは,是れ臣の道なり〉(聖徳太子《十七条憲法》)以来,公と私の対立は,その実質において上下の対立だったのであり,公は君主の利害を意味し,私は臣民の実質的利害を意味していた。そして,〈己を滅した真の奉仕,この奉公の生活以外に,私生活と称すべきものは存しない〉(《臣民の道解説大成》1942)に象徴されるように,滅私奉公は日本人の意識の一つの基軸となってきた。…
※「十七条憲法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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