1336年(延元1・建武3)11月7日立法された室町幕府の法令。ただし一般の幕府法が将軍や評定会議の決定を下達する形式をとるのに対し,この法は中原是円(是円),真恵兄弟らが足利尊氏の諮問に答えた上申書の体裁をとっており,単なる意見書であって正式な制定法とはいえないとする説が古くから行われているが,現在では形式のいかんにかかわらず,実質的には制定法と同じ効力をもったとする説がむしろ定説である。
内容は,(1)幕府の所在地を鎌倉に置くか他所に移すか,(2)どのような法理によって政道を進めていくか,の2編に分かれ,(2)は聖徳太子の十七条憲法と同じく17ヵ条から成っている。(1)は政道の善悪が居所の選択にまさるという長い講釈のあと,突如多数が欲するなら京都へ置く意見にしたがうべきかと結論する。(2)のうちとくに注目されるのは,戦火に荒れた京都の復興,治安の維持を目的とした市中法のグループで,私宅点定(てんじよう)(没収)の禁止,無尽銭・土倉の保護などを緊急の課題としている。このグループは,すでに幕府を京都に置くことを前提とした条文であるとしか考えられない。また政務に堪能な者を守護に任用すべしという第7条,宗教的な権威によって無理を通そうとする寺社訴訟の抑圧,さらに倹約や遊興の禁止令など,この後に展開される足利直義の政道に合致するものがきわめて多い。これらの点から考えると,この上申書全体には直義の意見が強く反映されており,本来鎌倉説をとる直義が,自説を譲る代償として政道にその方針を示したものであり,そのためには制定法ではなく,上申書がより妥当な形式であったのではないかという説も行われている。
なお主要な勘申者是円は,明法家中原氏の出で建武政府の雑訴決断所職員にも登用された法曹家。彼は《是円抄》と呼ばれる御成敗式目注釈書の筆者で,武家法と律令法が根本の法意においては矛盾せずとする法思想の持主であり,直義によって勘申者に選ばれるのにふさわしい人物であったといえよう。
執筆者:笠松 宏至
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室町幕府の発足に際して出された法令で、施政方針の宣言とでもいうべきもの。1336年(延元1・建武3)11月7日、京都での足利尊氏(あしかがたかうじ)側と後醍醐(ごだいご)天皇側との合戦が尊氏側の勝利に終わったわずか5日後の段階で出された。尊氏が日野藤範(ひのふじのり)・玄恵法印(げんえほういん)・明石行連(あかしゆきつら)・布施道乗(ふせどうじょう)ら、幕府に近い公家(くげ)・僧侶(そうりょ)や、武家の法曹家である奉行人(ぶぎょうにん)などに今後の政道のあり方を諮問し、それに答申する形式をとっている。しかし直接起草にあたったのは公家の法曹家である中原道昭(みちあき)(是円(ぜえん))・真恵(しんえ)の兄弟である。内容は、前文で、幕府の本拠地を鎌倉に置くべきか否かが問題とされ、鎌倉は不適切で、京都が適切であると明言しているわけではないが、京都とすることが適当であると主張されている。次に本文17か条では、一般的な倹約、賄賂(わいろ)の禁止、進物の抑制、礼節・名誉を重んずることなどの道義的規定がなされ、さらに訴訟の公正、裁判手続の維持、戦乱中の京都の混乱を正し、宅地・家屋を元の持ち主に返還し、狼藉(ろうぜき)を取り締まることが定められている。幕府の支配体制としては、とくに守護に器用の人材を登用することを強調し、また無尽銭(むじんせん)・土倉(どそう)などを保護して市中の経済活動を円滑にすることを意図している。17の数は聖徳太子の十七条憲法を意識したものであろうか。さらに後文では、公家社会の延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の時代、武家社会の北条義時(よしとき)・泰時(やすとき)の時代を理想として掲げることによって、建武新政の成果をも取り入れながら、鎌倉幕府体制の継承を宣言したものである。『群書類従』、『中世法制史料集』(第2巻)、『中世政治社会思想』(上)などに所収。
[羽下徳彦]
1336年(建武3・延元元)11月7日,中原章賢(のりかた)(是円(ぜえん))ら8人が足利尊氏の諮問に答えた答申。実質的に室町幕府開創の基本方針である。王朝勢力の本拠である京都に幕府を開くためには,幕府の理念・施策も変えるべきことを進言するもので,御成敗式目のような法令ではない。形式は答申書である勘文(かんもん)だが公布されたらしい。作成時期は,後醍醐天皇が捕らえられ建武政権が崩壊した直後。8人の答申者は,下級貴族の是円をはじめ公家・武家の法曹官僚で,足利直義(ただよし)に近い。諮問は,第1に幕府を鎌倉におくか京都に移すか,第2に今後の政道にどのような法を採用すべきかを問う。答申は,鎌倉からの移転は世論に従うべきこと,政道に関しては,17カ条が示され,京都の治安回復や経済活動保護の必要を唱え,守護を行政能力により任用する必要性を強調。寺社訴訟の抑制などを求めた。政治の理想像として,鎌倉幕府の執権政治とともに,公家政権側の理想である延喜・天暦の治も重視する。
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…1292年(正応5)右衛門尉が初見,1312年(正和1)以前に出家。建武中興政府の雑訴決断所に法体で出仕したが,その瓦解とともに足利氏に属し,36年(延元1∥建武3)11月,尊氏の諮詢に答えて提出したのが《建武式目》である。同書に署名している真恵は是円の弟で46年(正平1∥貞和2)65歳で死亡しているから,是円の生没年もほぼ推定しうる。…
※「建武式目」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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