千葉卓三郎
ちばたくさぶろう
(1852―1883)
五日市(いつかいち)憲法草案の起草者。嘉永(かえい)5年6月17日、陸前国栗原(くりはら)郡白幡(しらはた)村(宮城県栗原市志波姫(しわひめ))に平民として生まれる。父宅之丞(たくのじょう)は仙台藩の下級武士で、卓三郎誕生の直前に世を去り、生母とも幼くして生別した。12歳で蘭学(らんがく)を学び、17歳のときには農兵隊の一員として戊辰(ぼしん)戦争に従軍した。この白河(しらかわ)口の抗戦で「賊軍」の汚名を受け、そのときから新しい生き方を求めて流浪の生活を始めた。やがて東京・西多摩郡五日市の勧能学校に赴任し、ここで深沢名生(なおまる)・権八(ごんぱち)父子と出会う。この出会いで彼の才能は発揮され、深沢父子を含む五日市学芸講談会の青年民権家らと熱心な討論を重ね、憲法草案の起草という偉業を成し遂げた。明治16年11月12日に31歳で死去。遺稿に『王道論』などがある。
[色川大吉]
『色川大吉編『三多摩自由民権史料集』(1979・大和書房)』
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千葉卓三郎 ちば-たくさぶろう
1852-1883 明治時代の自由民権運動家。
嘉永(かえい)5年6月17日生まれ。大槻磐渓(ばんけい),石川桜所(おうしょ),福田理軒(りけん),ニコライらにまなぶ。明治13年東京五日市の勧能学校教師となり,深沢権八らの五日市学芸講談会に参加,14年「五日市憲法草案」を起草した。明治16年11月12日死去。32歳。陸奥(むつ)栗原郡(宮城県)出身。
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ちば‐たくさぶろう〔‐タクサブラウ〕【千葉卓三郎】
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ちばたくさぶろう【千葉卓三郎】
1852‐83(嘉永5‐明治16)
明治期の代表的な私擬憲法である日本帝国憲法(五日市憲法草案)の起草者。陸奥国栗原郡白幡村(現,宮城県栗原郡志波姫町)に生まれ,11歳のとき仙台で大槻磐渓に学ぶ。のち石川桜所,鍋島一郎,桜井恭伯らに師事,1871年(明治4)上京して,神田駿河台でニコライに就いてギリシア正教,ロシア語を学んだ。80年,五日市の勧能学校の教員となり,のち永沼織之丞の後を受けて2代目校長となった。深沢村の旧名主深沢名生・権八父子の知遇を得て,同家の豊富な蔵書をもとに,地元青年有志と学芸講談会を結成し勉強会を開催した。
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