千葉城跡
ちばじようあと
[現在地名]熊本市千葉城町
熊本城本丸の北東、茶臼山東端の標高二一メートルほどの独立小丘陵にあった室町時代の城で、熊本城の起りとされる。現在は城跡と本丸の間を県道が通るが、かつては玉川が流れ、堀の役割を果していたと推測される。北と東は坪井川、西は空堀と玉川、南は若干の館地と坪井川で囲まれた格好の地であった。東側を流れる坪井川は、昭和初期まで東へ大きく屈曲していたことから、城の範囲は、現在の城東町の熊本大学付属幼稚園一帯を含んでいた。「国誌」によれば、応仁―文明(一四六七―八七)の頃、菊池氏の一族であった「出田筑前守秀信所領八十町ヲ領シ、初メテ隈本在城ト云、今ノ千葉城ナリ」とある。出田筑前守秀信に関して、文明―長享年間(一四六九―八九)に藤崎惣政所として藤崎宮造営に奔走したり、放生会記録の中に名を連ねている出田山城守の名がみられ(文明四年四月一五日付「藤崎宮番次第写」藤崎八幡宮文書など)、山城守を筑前守と誤伝したとも考えられる。
千葉城跡
ちばじようあと
小城町の北方、祇園川を前にした城山にある。祇園城・牛頸城・牛頭城ともいう。
元茂公御年譜によると正和五年(一三一六)千葉胤貞は下総国より小城へ下向し、晴気の城に居住して牛頭の城を取り立て、山上に祇園社を建立したという。また、胤貞の子の胤泰が嘉暦三年(一三二八)に築いたともいう。千葉胤朝の時、文明二年(一四七〇)老臣中村胤明と岩部常楽との土一揆合戦とよばれる戦いがあり、胤朝はその弟胤将に討たれて没した。
千葉城跡
せんばじようあと
熊毛半島の南端に位置し、小高い山にあり、山頂から防予諸島を展望することができる。中世、宇賀島衆が上関海関を扼していた頃の山城。
大内義興の頃宇賀島衆が上関を領していたが、大内氏と讃岐の細川氏が争った時、能島(現愛媛県越智郡)、来島(現愛媛県今治市)、因島(現広島県因島市)の三島を領した村上衆が大内氏に加勢。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 