江戸時代に将来された中国料理は,民間在俗の料理と,黄檗(おうばく)僧などによって伝来された僧院料理の2系統があり,前者は卓袱料理といい,後者は普茶料理と呼ばれた。卓袱は〈しっぽこ〉〈すっぽこ〉などとも呼ばれ,〈卓子〉〈食卓〉の字もあてられ,八僊卓(ぱすえんちよ)と称されることもあった。卓袱はテーブルクロス,八僊卓は方形で8人掛けテーブルの意である。卓袱料理は長崎で始まった。
17世紀末の長崎には,人口のおよそ1割を占める中国人が滞留したが,彼らは出島に隔離されたオランダ人とちがって,当初は市中の居住が許され,市民との交流も放任された。一時期には中国人のための料理を業とする日本人は35~36人を数えたといい,中国人への食料供給のための生産流通に従事した日本人もかなりの数にのぼったと思われる。また,1691年(元禄4)には中国人,オランダ人以外の豚,鶏の食用が禁止されており,異国的食肉習慣が長崎市民の間に拡大していたことがうかがわれる。
18世紀の日本は空前の中国熱高揚期で,このようなブームを背景に,享保年間(1716-36)には長崎の人佐野屋嘉兵衛が京都に進出,卓袱料理店を祇園の下河原に開いた。いまに続く料亭鳥居本の祖である。その後各地に卓袱料理店が開業し,大坂では野堂町の貴得斎,江戸では神田佐柄木町の山東(山藤)や日本橋浮世小路の百川(ももかわ)などが有名であった。そうした店で供された料理はおおむね日本人好みにアレンジされ,豚肉は魚鳥で代用され,卵料理や揚物の多かったことなどが特色だったようである。むしろ,料理名や器物名を中国風に呼び,部屋も中国風にしつらえるなど,ムードを満喫させることに重点が置かれていた。とくに一つテーブルを囲んで主客が同じ器から取り分けて食べることは,銘々膳を通常とした当時の日本人にとってよほど珍しかったとみえ,テーブルクロスないしはテーブルを意味する語をそのまま料理に冠して通称とした理由であろう。通常は,前菜ともいうべき小菜7~8種,大菜と呼ぶあたたかい料理が5~6種,多い場合は小菜16種,大菜9種が供された。現在では茶碗蒸し,けんちんなどに往時の姿が見られ,東坡煮(とうばに)(豚肉の角煮)などが特色とされる。
→普茶料理
執筆者:平田 萬里遠
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