中国から伝えられた禅寺の精進料理。黄檗(おうばく)料理ともいう。江戸時代初期に、中国明(みん)末の高僧隠元(いんげん)が渡来、朝廷、幕府の帰依(きえ)を受けて、京都宇治に黄檗山万福寺(まんぷくじ)(黄檗宗大本山)を創建した。隠元とともに多くの僧や文化人が渡来し、禅の高揚ばかりでなく、中国文化の移入にも大きな影響を及ぼし、その文化は黄檗文化とよばれる。黄檗山をはじめ長崎の寺などの関係寺院で、中国の禅寺と同じ精進料理がつくられ、珍しい中国式の精進料理として知られるようになり、江戸の料亭で供されたり、書物に紹介されたりしている。黄檗関係の手で受け継がれ、現在に至っている。
長年の間に多く日本化されているが、4人1卓で食する形式や、油を多用することなどの伝統、また献立を菜単(さいたん)とよぶのをはじめ、料理名も当時のまま受け継がれている。内容は一定しないが、季節の野菜や乾物を材料としてつくられ、中国の精進料理の伝統もあって擬似料理(野菜を材料にして、動物性の食物に似せてつくる)もみられる。笋羹(しゅんかん)(野菜などの煮物の盛合せ)、油(ゆじ)(薄味付けてんぷら)、雲片(うんぺん)(野菜などの葛(くず)かけ煮)、麻腐(まふ)(ごま豆腐)を中心に、汁、みそ煮、和(あ)え物、漬物、飯(茶飯など)、果物が出される。料理は4人分が1皿に盛られて出されるので、各自が取り皿に取り分けて食べる。普茶とは、茶を点じて普(あまね)く大衆に供することで、普茶料理の名もこれから出た。黄檗料理の名はあまり用いられない。
[森本信光]
江戸時代から行われた中国風の精進料理。1654年に来日した隠元禅師を祖とする黄檗(おうばく)宗の寺院から広まったので黄檗料理ともいう。普茶とは茶をたてて一山の大衆に供する茶礼をいい,それに随伴するふるまいだったのでこの名がある。黄檗宗は最も新しく渡来した宗派であり,それだけに普茶料理は中国の習慣,風儀をよく伝えていたが,それが鎖国下の江戸時代の人々の中国趣味に投じて普及した。料理は動物性の材料をいっさい使わぬものであったが,油を多用する濃厚な味つけが新奇な味覚として歓迎された。そして,それ以上に〈巻煎(ケンチエン)〉〈八宝菜(パポウツアイ)〉などと片言の中国語で料理を呼び,榻(とう)に腰掛け,卓(しよく)の上の大皿から料理をめいめい皿に取り分けて会食することが,彼らのハイカラ趣味を満足させたようである。現在では京都宇治の万福寺その他の黄檗宗寺院のほか,料理店の中にも普茶料理を称する店がある。一般的な菜単(さいたん)(献立)は,澄汁(すめ)(ランの花などを浮かべたすまし汁),麻腐(まふ)(ゴマ豆腐),雲片(うんぺん)(野菜いためのあん掛け),冷杯(ロンペイ)(あえ物,浸し物の類),笋羮(しゆんかん)(野菜,乾物などの炊合せ),油𩝐(ゆじ)(野菜などのてんぷら),素汁(そじゆう)(みそ汁),醃菜(イエンツアイ)(香の物),飯子(ハンツー)(飯)といったものである。
執筆者:平田 萬里遠
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…江戸時代に将来された中国料理は,民間在俗の料理と,黄檗(おうばく)僧などによって伝来された僧院料理の2系統があり,前者は卓袱料理といい,後者は普茶料理と呼ばれた。卓袱は〈しっぽこ〉〈すっぽこ〉などとも呼ばれ,〈卓子〉〈食卓〉の字もあてられ,八僊卓(ぱすえんちよ)と称されることもあった。…
…種子は長翼をもち,翼を含め長さ約1.5cm。若葉は香りがあり,中国では広く食用に供されるし,黄檗(おうばく)山万福寺の普茶料理に用いられるので有名である。木材は心材が赤褐色~褐色の環孔材で,気乾比重約0.53。…
※「普茶料理」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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