中華料理とも称される。中国語では料理は〈菜〉と表し,〈菜単〉とはメニューを指す。中国各地方の料理,さらに宗教に由来する〈素菜〉(精進料理),〈清真菜〉(イスラム教徒の料理)などをふくめて中国料理という。
中国料理は世界に類のない長い歴史と普遍性をもった料理である。一般的にどの国の誰が食べてもうまい料理として,フランス料理とともにあげられる。それぞれブルボン朝,明・清王朝などの宮廷料理から発達しており,洗練されつくした国際性の高い料理といわれる。特徴として以下の点があげられる。(1)材料の種類が多く,ごく普通の青菜から珍しいものはつばめの巣(燕窩),熊の掌,駱駝(らくだ)のこぶ,象の鼻,鱶(ふか)の鰭(ひれ)(魚翅),田鶏(食用蛙),キノコ類などの山海の珍味,さらには鳥獣魚肉,甲殻類,貝類,野菜,果物類の生鮮,乾物,塩蔵,発酵品,漬物類にいたるまで多岐にわたる。これらの材料と各種香辛料・調味料30種以上を用いた料理法を組み合わせ,油を多用し強弱の火かげんを自在にあやつって,それぞれ風味のことなる1万点以上の料理がつくられた。単品の材料で作る料理もあるが,ほとんどが主材料のほかにいくつかの副材料をバランスよくとり合わせ,調理の前に料理の種類に合わせて,材料を切りそろえたり,肉や魚に下味をつける。よく〈粗料細作〉(安い材料に手間をかけて高級料理にする),〈就地取材〉(材料の現地調達)といわれるように無駄・無理をせずに応用が自由自在にきくのも中国料理の特徴であろう。(2)乾物の利用の多いこと。中国は広大な地域をもち,かつ天変地異に古くより悩まされたことから,貯蔵や輸送の便をはかって乾物の利用が発達した。(3)調理用の器具が少なく合理的であること。ほとんどの料理が一本の包丁と一つの鍋(中華なべ)と鉄勺のみで調理される。(4)おおぜいが一つの食卓をかこみ料理を大皿に盛りつけ,同じ料理を各自がとりわけて同時に食することができる。(5)医食同源,薬食帰一の思想があること。医食同源,薬食帰一の語はいずれも,薬と食物の源は同じであるという考え方を示すが,この食療法は,戦国期の成立とされる《山海経(せんがいきよう)》の記載に散見でき,また《黄帝内経(こうていだいけい)》によれば,酸,苦,甘,辛,鹹の五味の調和ある摂取によって健康が保たれるとされる。周知のように本草書の集大成である明代の《本草綱目》では,日常の食物ほとんどの薬効が示されている。《飲食治療指南》(1979,南京)には602種の食品の薬効が記載されており,医食同源の思想は現代にも重要視されている。
中国は長い歴史の間に幾回となく異民族の征服をうけて王朝が入れ変わったが,異民族は,漢民族文化または中原文化という大きなるつぼの中にほとんどが溶けこみ,漢文化を核に中華文化として統合をみてきた。中国料理も同様で,新石器時代の仰韶(ぎようしよう)文化に源を発し,外来の食物と料理法をとりこみ進歩を重ね,今日の幅広い姿になった。
中原に原始的農耕がはじまる新石器前期の代表は仰韶文化である。磨製石器を道具として禾(アワ)をつくり,彩色土器で禾を煮て食べた。かたわら狩猟,牧畜も行った。同じころ長江(揚子江)下流では稲作を営む印文陶文化が発達した。殷王朝はすぐれた青銅器文化をもち,占いや祭祀が盛んであったが,供物の料理や食物を青銅器,陶器,木器などで盛った。周王朝も銘文が刻まれた精巧な青銅器と陶器,木器などに食物を盛り,さかんに祭祀を行った。宴席,飲食,料理の図柄が東周の装飾銅器に出現するが,これらによって当時の食生活の一端を知ることができる。《詩経》《楚辞》などの古典をみると,飲食や料理に関する描写に出くわすことしばしばである。《楚辞》の中の〈招魂〉や〈大招〉は,料理の数々を書きつらねて,祖先の魂を招き誘う内容の詩で,その料理も現代人をも垂涎(すいぜん)させるに足るものがある。料理は神や祖先への供物として祭祀に占める役割は非常に大きかったのである。
《周礼(しゆらい)》天官に〈割烹〉の語がみえるが,各種材料を切り,煮合わせる意で料理を指す。この語からもわかるように後世の中国料理がもっとも得意とする〈炒〉の技法はまだない。この当時は〈羹〉が最重要な料理であったが,これは一種の肉のスープか肉のあつもので,味の調和が特徴である。主な料理法は煮,蒸,烤,燉(とん),醃(塩漬け)と晒乾(日干し)に要約できよう。《礼記(らいき)》内則には古代の料理の描写とつくり方が記載され,老人のための料理の八つの方法も詳しく出ている。飯には黍(キビ),稷(コーリャン),稲,粱(アワ),白黍,黄粱があり,羞(しゆう)(粉で作った点心に準じるもの)に糗(しよう)(粗びき麦の粉),餌(じ)(麦以外の穀物の粉),粉(麦類の粉)と酏(い)(おもゆまたは甘酒,酒)があり,料理には牛,羊,豚を火であぶったもの,牛と魚の膾(なます,刺身)があり,雉(キジ),兎(ウサギ),鶉(ウズラ),鷃(あん)などの野禽や小動物も使用されている。羹には雉羹,脯(薄く伸ばして干した肉)羹,雞羹,犬羹,兎羹などがある。醢(けい)(肉をこうじ,塩と酒につけたもの)には肉醢,兎醢,魚醢のほか,蝸醢,蚳醢のような珍しいものもある。醢はしばしば熱い料理や羹の主なる材料の一つとして使われ,また調味料でもある。醬(ひしお),豉(くき),酢などの調味料のなかでも,もっとも大事な調味料は塩であった。たとえばわれわれが今日でも日常に使う〈塩梅(あんばい)〉の語は,古く〈鹹塩と酸梅〉の調味,あるいは調味をととのえる意,そして国政を治める宰相の意に引伸した(《書経》)ことからも,そのことはうかがえる。香辛料に木桂,山椒,薑,蓼などが見られる。果物には,梨,山楂(サンザシ),杏,梅,李,桃,柿,栗,棗,榛(ハシバミ),杞(クコ),桜桃などがあって多彩である。
《論語》《孟子》《墨子》などの先秦の諸子のなかで,頻繁に料理や飲食に関する事柄が意味深長に談話で交わされる。たとえば,〈魚,我の欲するところなり。熊掌もまた我の欲するところなり。二者,兼ね得べからざれば,魚を舎(す)て熊掌を取るものなり〉とは孟子の言葉である。料理が古代中国から士大夫の享楽であり,大事な教養と知識の一環を占めていたからであろう。殷の湯王の宰相伊尹(いいん)はもと庖宰(料理人)であったのを見いだされたものであり,また今日名料理の代名詞ともなっている易牙(えきが)は斉の桓公の料理人で,自分の子を蒸して君主の食に供してまで,その寵愛を得ようとしたことでも知られる。なお,〈肉食の人〉とは,このころの士大夫を指す言葉でのちのちまでこの意味で使われる。
《周礼》《儀礼》《礼記》の三礼にはほとんどのページに祭祀に使う食物,酒の種類と量が記されている。《礼記》に王の厨房に働く人員が2200余人とあり,当時の人口数から推しても,食事への享楽がいかに重視されているかがわかる。《儀礼》は食物と祭祀の密接な関係を,《礼記》は時と場所に応じた食物と食事の作法について述べた個所が多く見いだされる。《左伝》《墨子》では,鼎(かなえ)(煮炊きの道具)を国家の象徴としており,楚の荘王が周の定王に〈鼎の軽重を問う〉の故事はあまりにも有名である。なお箸(はし)も殷代に使われていた伝説が,《韓非子》に象牙の箸を使っていた紂(ちゆう)王をおじが諫(いさ)めた話として載るが,やはり古くは手づかみで食べたようである。やがて匙(さじ),箸が用いられるようになる。前漢にはすでに箸と匕(匙)の並用がはじまったようで,羹には箸を用い,飯類は粘着力のないぼろぼろであったため今日とは違って匙を用いた。
中国では古来,跪座(きざ)式で,宴会において各自が餐席に跪(ひざまず)き,おのおのの前には料理を盛った一組の食器が置かれた。この食事形式は,宋代になると,大きなテーブルを囲み,椅子に腰かけて食事する形に変わった。料理の皿数もまた地位,年齢に応じて規定があった。〈天子之豆(肉を盛る器。木器,陶器と竹で編んだものを使う)二十有六,諸公十有六,諸侯十有二,上大夫八,下大夫六〉(《礼記》),〈六十者三豆,七十者四豆,八十者五豆,九十者六豆〉(〈郷飲酒義〉)である。このほか,飯の量,料理,たれ類,酒の配置など細かに決められている。
春秋から戦国にかけては,鉄製農具が普及し,運河による灌漑で,広大な原野が耕地に変わり,農業は大幅に進歩した。商工業も発達し,鋳造貨幣が使われた。都市の盛場の盛況が史料に残っていることから推せば,飲食店などもこの時代に出現したであろう。漢の武帝の初めごろ,西域に出使した張騫(ちようけん)が西域のパン小麦,胡麻,胡椒,胡荽(香菜),胡羅蔔(ニンジン),胡瓜(キュウリ),葱(ネギ),蒜(ニンニク),茄子(ナス),柘榴(ザクロ),葡萄,胡餅(小麦や麦類などの粉で焼いたもの)などの植物,料理法をもち帰ったと伝えられる。もとよりこれらは,いわゆる〈張騫もの〉と称されるもので張騫の西域遠征の際にすべて伝来したものではない。しかしパン小麦の製粉,粉食の技術が中国に入ったのは,紀元前2~前1世紀の前漢時代とされ,こうじによるパンの発酵法も伝わったが,中国人はパンの焙焼法を捨て,中国独特の蒸製法を開発して,饅頭(マントウ)(あんなし),包子(パオズ)(あん入り)をつくり出し,宋・明・清の各時代をへて,いっそう精緻の度が加えられ今日にいたっている。粒食が主であった新石器時代以来の華北の食事形態は,漢代以降,粉食に移っていき,長江を境に江南の米,江北の麦といわれるようになる。漢の時代は大いに国威を発揚したばかりでなく,食事文化の面から見ても広範にわたる料理の材料,香辛料を得,伝来の新料理法をも取り入れ,料理の内容・技術ともに大きく発展した時代といえよう。
三国時代をへて,西晋の時代は貴族や豪族の内紛によって,北方異民族(五胡)が華北に侵入,西晋は洛陽を捨て,南渡して建康(南京)に都した。東晋の成立であるが,北方の貴族が南遷してもたらした中原の文化は,風光明美な江南の風土と融合し,独自の新しい貴族文化が作りあげられた。王侯貴族はさかんに催される宴会でひねもす時を過ごし,宴席で競って詩作に興じた。また南移した流民による中原の高度な農業技術が江南の地に移され,温暖湿潤な気候と肥沃な土壌の上で農業生産を躍進させた。この時期の農業技術書《斉民(せいみん)要術》には,調味料,食品の加工・調理法が2巻を割いて記述されている。この時期には調理用具として鉄器があらわれるのが注目されるが,それにともない調理法が複雑になり変化に富むものとなった。そして今日に伝わらないのは遺憾であるが,料理書である〈食経〉が数多く流行を見せた。南渡した漢人が覚えた珍味として落とせないのが,鮓(さ)である。これは,なれずしで,魚を塩につけてから米飯にはさんだうえ,おもしでおさえて飯が乳酸発酵したころあいに魚を食べた。
隋から唐にいたって当時の国際都市長安は,西域人(胡人)が多く往来・居住し胡風が広まったことはよく知られる。北方ではアワ,キビが主食であったことはもとよりであったが,稲も漕運により南方より運ばれ米食が普及した。碾磑(てんがい)という水車を利用した石臼による製粉法もこの時代いっそう発達し,粉食の普及に輪をかけた。胡餅のほか,酪(乳酸飲料),酥(クリーム),醍醐(ヨーグルト),乳腐(チーズ)などがもてはやされた。陸羽の《茶経(ちやきよう)》に代表されるように唐代には飲茶の風習が広がるが,砂糖もこの期には甘蔗(サトウキビ)からとられ製糖業がおこっている。
五代の混乱をへて宋が成立するが,この時代は社会・経済の近世的な発展が見られ社会生活も豊かな相をみせる。中国料理のうえでみれば,石炭の広範な使用に注目しなければならない。石炭は,中国では漢代より使用が始まったとされるが,一般民衆の間に使われるのは宋代になってからである。宋代の開封ではどの家もコークスを炊事に用いていたという。この燃料革命によって,鉄鍋の普及と〈炒〉の料理法が確立されていく。北宋の首都汴京(べんけい)(開封),南宋の首都臨安(杭州)の繁栄をそれぞれ描いた《東京夢華録(とうけいむかろく)》,《夢粱録(むりようろく)》《武林旧事》は,当時の都市の商店,飲食店,酒楼,盛場のようす,年中行事,市民の生活と風俗習慣などがよく描かれているが,とりわけ今日なお不分明な食品,料理もあるとはいえ,多種多彩な食生活の一端をうかがうことができる貴重な資料である。
南宋は豊かな江南の風土を生かした農業や商工業が発達し,陶磁器,織物業が各地に起こり,対外貿易が盛んになった。杭州を舞台にした南宋の王侯,官僚,大商人などの富豪たちの食生活は贅(ぜい)をきわめ,宴会においては,分業の進んだお抱えの料理人たちの腕を披露しあい,彼らが作りだす名菜はあたかも主家の栄誉のように遠近の語りぐさとなった。また美味を競うだけにとどまらず,材料の費用と手のこんだ調理の費用まで競いあったという。なお,豆腐は漢の淮南王(わいなんおう)劉安の発明とされているが,宋初に出現した。唐末五代の事がらが記されている《清異録》に初見する。
遼・金の征服王朝が南宋と対峙したあと,モンゴル族は中国全土を征服・支配した。この時代の料理は,支配民族のモンゴル人の特徴が濃くでてくるのは当然であるが,とりわけ北方は羊肉などの遊牧色に染まった料理で,酥,酪などの乳製品をはじめとして,料理法も単純な焼くやり方が主流を占めた。そのことを示すのが,この時代に書かれた家庭百科《居家必要事類全書》の料理の項で,万事モンゴル風である。この書は明代にうけつがれ,その後の中国料理に大きく影響を与えた。
モンゴル族を北方に駆逐し漢人の王朝を創建したのが明王朝であるが,料理書からみた場合,数多く刊行されたにもかかわらず独創的な料理書が少ないといわれる。南海の珍味として知られる燕窩(つばめの巣)が出現したり,豆腐料理が庶民の卓上をにぎわす。また焼餅,饅頭,餅子,炒麵,湯麵などの麵製品も家庭の主食であった。明代には甘藷(サツマイモ),馬鈴薯(ジャガイモ),玉蜀黍(トウモロコシ),唐辛子(トウガラシ),落花生(ラッカセイ)などの作物が外来したが,それらの料理法はすぐには発達しなかったようである。東南アジア諸国に流出する華僑の出国地であった潮州には,カレー料理のたれである沙茶醬が伝来し,改良されて潮州沙茶醬となって国内外に名をはせた。
満州族の王朝である清朝は,乾隆帝と西太后という空前絶後の大食道楽を出し,〈満漢全席〉という三日三晩続く途方もない宴会スタイルを創出した。山海の珍味を網羅して,手間暇かけて調理した料理を一食に何十品も並べる宮廷料理の毎日毎食の種類,材料,製作者,皇帝の食べ残し料理の行方など,微に入り細をうがった記録が〈御膳房檔冊〉として残っている。清代にもなると今日のわれわれにもすでになじみ深い料理が数多く出現する。鴨をふとらせて遠火で丸焼きした烤鴨(北京ダック),鴨の卵を漬けた皮蛋(ピータン),そして燕窩,魚翅も明代とは違って普及した結果,それほど珍しいものでなくなっていた。日本からは長崎貿易を通して輸入された海参の類は珍重された。
清代にも料理書は多々あるが,最も人口に膾炙(かいしや)するのは袁枚(えんばい)の《随園食単》である。士大夫の食生活や料理のあり方を知る上で貴重な書である。しかし専門の料理人による名菜の多くは秘伝として直系の子孫か特定の弟子にしか伝わらず,門外不出であるため幻の名菜となっていた。こうしたなかで清朝の崩壊後,御膳房で働いていた料理人が民間に流れ,宮廷料理を出す仿膳といった店を開き,宮廷料理が一般に普及し今日の中国料理を豊富な内容のものにした。現在の中国では名コックを優遇し,生活を安定させ,新しい後継者を養成するため国家が力を貸している。また《北京名菜譜》《中国食譜》などをはじめ,地方料理の食譜,一般の家庭料理書である《大衆菜譜》も続々と整理出版されて,名菜の再発掘と家庭料理の多彩化の努力が行われている。
なお,精進料理である素菜は,六朝時代に僧侶がつくり出した斎食にはじまると普通にはいわれ,今日にいたっても愛好者が多い。またイスラム教徒の料理である清真菜は,中国料理の中で独立した一系統をなし,元の時代に大いに発展した歴史をもつが,戒律により豚肉を使用しない料理であるのが特徴である。今日,街には〈回回食堂〉があって,非イスラム教徒の愛好者も多い。
広大な国土を擁する中国では,気候,風土,物産資源,風俗習慣,歴史的背景などにかなりの違いがある。そのうえ多民族国家であるため,それぞれの民族の生い立ち,信仰,飲食習慣,嗜好,しきたり,禁忌など異なる場合が多い。このためそれぞれの特色と風味をもった地方料理が各地に成立する。しかし地方別分類が記録にあらわれるのは,1912年,日本人の著した《貿易上より見た支那風俗》が初めで,32年の《中国精美食譜》では15地方に分類している。また《中国名菜譜》では14地方1261種の料理が出ている。よく〈大江南北〉といって長江を境に北を華北,南を華南,または江北,江南という。俗に〈南船北馬〉〈北麦南稲〉といって華北と華南の風土,物産の違いを表す。〈魚米之郷〉といわれるように江南は縦横に走る水路と随所に大小の湖,貯水池があり,魚貝類,エビ・カニなどの水産物に恵まれ,米の飯と料理に魚貝類,鳥肉を多く使い味が淡白である。北は粉食と獣肉を多用,味は濃厚である。それで簡単明瞭に中国料理を,北京料理を代表とした〈北菜〉と広東料理を代表とする〈南菜〉の2系統に分ける人がいる。また黄河,長江,珠江の三大河の流域をそれぞれ一つの系統とみなした分け方もある。つまり,黄河流域の開封を中心に発達した北菜(河南・山東・河北・山西・天津・北京料理),長江流域の揚州を中心に発達した南菜(揚州・徽州・蘇州・杭州・上海・寧波(ニンポー)・無錫(むしやく)・南京・湖南・江西・四川料理)と,珠江流域の広州を中心に発達した粤菜(えつさい)(広東料理)である。また,中国の地方語の分布と重ね合わせて分類する考え方もある。よく〈南淡・北鹹・東酸・西辣〉の成語で東西南北各地方の味の違いを表現する。同じような発想から中国料理を北は北京料理,南は広東料理,東は上海料理,西は四川料理の四つの系統に分けるのが現在では一般的のようである。
地理的に少数民族の遊牧地に近いこともあって,少数民族に由来する料理が多く見られる。北京ダックの名で世界的に有名な〈北京烤鴨〉を焼く炉は,中央アジアでナン(アラブパン)を焼くのに使うタンドールに由来する。〈涮羊肉〉(羊肉のしゃぶしゃぶ)は,北京の屋台で粥を売っていた回族の人が考案して売り出したのが当たり,〈東来順〉という有名な清真料理の店を開いたことにはじまる。このほか〈烤羊肉〉(羊の焼肉)も北京料理を代表する一品である。
南宋末,この地まで落ちのびた宮廷の料理人と潮州人(中原から十幾世紀前に戦乱と北方異民族の統治を嫌って南移した漢民族の後裔)が,伝統的な中国料理の技法を生かし豊かな南中国の物産を使ってこの地方の風味をつくり出した。中国では珍しく生魚を刺身風に食べるのは,中原時代の食習慣のなごりかと思われる。広東料理は潮州料理を母体にして発達したものであるが,〈食在広州〉によって,広州料理が今日広東料理の代表と思われるようになったといわれる。広東料理で第1に挙げられるのは〈烤乳猪〉(子豚の丸焼き)である。乳離れした子豚を特殊な飼料で7~8kgにふとらせて使う。広東料理では焼烤席(烤乳猪のあるコース)が最高で燕窩席,魚翅席とランクが下がり,海参席は普通コースである。烤乳猪は儀式にも使われる。例えば広東では結婚式の後,花嫁の初めての里帰りの際に,婚家は烤乳猪を持たせないと離縁を意味するという。〈焼全翅〉(鱶の鰭の姿煮),〈蠔油牛肉〉(牛肉のオイスターソースいため),〈東江塩鶏〉(客家風鳥の塩蒸し),〈客家鑲豆腐〉(客家風肉詰め豆腐のくず煮)も挙げておくべきであろう。客家(ハツカ)とは五胡乱華を契機に南遷し,梅県,東江地方を中心に住みついた中原の漢族の一分支で,華僑として世界各地にも進出している。
上海はアヘン戦争後に南京条約によって開港させられ,国際貿易港,中国第一の国際都市の地位を固めた。この急激な発展と人口増加にともなって,各地方料理を標榜する料理店が増え,かつイギリス,アメリカの共同租界,フランスの租界が設置されていたため洋風,中西折衷レストランなど風味の異なる各種料理が上海に集まった。ここには伝統的な名菜というものはなく,老饕(味の通人)たちのあいだでは上海の郷土風味豊かな食べ物を味わうならば,城隍廟(じようこうびよう)(上海旧城内の南市にある)の境内とその界隈の小喫店(簡単な軽食類を売る店)に限るというのが通説のようである。城隍廟の秋から冬にかけての名物の〈白煮羊肉〉(肉と臓物をいっしょに水煮した清真料理)は〈食補〉(栄養補給)をかねて遠方からわざわざ食べにくるという。春と夏は羊を食べるとのぼせて鼻血を出すと信じられ,中国大陸,台湾でも食べないのが普通である。バラエティに富んだ麵類,粥類,名物の〈大閘蟹〉がある。これらはいわゆる〈不登大雅〉(大場面,正式の宴会には出さない)の部類と見られ,新興都市上海の代表料理として〈鱔段焼肉〉(ウナギに似た淡水魚のぶつ切りと肉の醬油煮),〈炸烹明蝦段〉(揚げクルマエビの酢入りあんかけ),〈四鰓鱸什錦暖鍋〉(蘇東坡《後赤壁賦》にもある松江のスズキの水炊き)など,淡水・海水産魚介類料理が有名であろう。
四川省は成都を中心に成都平野が大きく開け,河川水路が縦横に走り,農耕に適した肥沃な土壌と山の幸に恵まれる。四川の鯉のなれずしは《三国志》の時代にはすでに作られている。四川は標高が高く,ガスがよく発生し,夏場は蒸し暑い。風土病を防ぐため,香辛料を多用,辛味のきいた料理が多い。〈麻婆豆腐〉は経済的な家庭料理として日本で有名であり,〈榨菜青椒牛肉糸〉(ピーマン,ザーサイと牛肉のせん切りいため),〈辣子鶏丁〉(鶏肉のトウガラシいため)とともに代表的家庭料理である,〈樟茶鴨〉(アヒルの山椒風味いぶし焼き揚げ)は四川料理の宴会にはなくてはならない一品である。
中国と日本の関係は記録の上では3世紀の《三国志》の《魏志倭人伝》に始まるが,その後,遣隋使や遣唐使らによって,文字,宗教,文化,芸術のほか,食生活の面ではみそ,納豆(浜納豆),豆腐,しょうゆ,酒,酢,麵類,点心類(ようかん,ういろう,まんじゅう)などが伝えられている。すしも古代中国に由来するといわれる。中国伝来の茶と野菜類など枚挙にいとまがない。中国料理の日本化した長崎の卓袱(しつぽく)料理,中国の精進料理に由来する普茶(ふちや)料理,ちゃんぽん(福建省出身の華僑陳平順により1899年長崎にて売り出される),とんこつと呼ばれる豚骨付きバラ肉の角煮,正月の雑煮,中国ではすたれた屠蘇(とそ),七草粥,五月の節句の粽(ちまき)なども中国伝来である。
長崎は日本における華僑発祥の地で,江戸時代すでに清国との交流が深い長崎に貿易商人としての華僑が渡来していた。神戸には1868年の開港で,諸外国人に交じって,中国本土と長崎から華僑が移ってくる。この華僑たちが神戸に中国料理をもたらすことになる。最初は貿易商が家庭内と,従業員の食事作りに専属の料理人を抱えていたのが,中国人社会の拡大に伴い明治の中ごろに中国料理店の第一号が開業した。明治末には十数軒に増えたが,この時期までの商売の対象は在留中国人と港に出入りする中国人船員,貿易関係者や官庁など華僑と交流の多い日本人に限られていた。大正時代には一般大衆向けの中国料理店もあらわれた。
昭和になるとさらに中国料理店は増え,日本人経営の中国料理店もあらわれた。満州事変の後日中戦争が始まり,大陸経験者が多くなるにしたがって中国料理の愛好者も増えていった。戦争で帰国する華僑がおおぜいいたにもかかわらず,中国料理店の数は逆に増えたという。そして戦後大陸からの引揚者が中国の食文化を持ち帰り,これが日本各地に中国料理を広げる素地になったといわれる。横浜は戦前南京町(横浜中華街)に中国そば屋が数軒あった程度であったのが,戦後になって中華街と名前が変わり,大発展を続けて130軒ほどの中国料理店が軒を連ねるようになった。戦後は東京,大阪の大都会に中国料理の大飯店が建ち並び全国に中国料理店,中国そば店の類が普及した。日本の中国料理は本場に比べて淡白であっさりしているといわれるが,料理は本来風土,気温,好み,食習慣などの違いによって味に微妙な変化が起こるのは当然であろう。
執筆者:田中 静一+林 彩美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国は古く数千年の歴史と、広大な土地と、10億の人口を有する大国である。しかも、海に面する南東部の平野には、黄河、長江(揚子江(ようすこう))などの大河が流れ、その流域は広い平野で、農産物や水産物が豊富である。奥地には砂漠地帯あり、山岳地帯ありで、住む人々も多様性に富む。国民の94%は漢民族で、そのほか満洲族、モンゴル族、回族など、50余の少数民族が住む。漢民族を中心に、古く高い文化を有し、その食生活も不老長寿を目標として漢の時代にすでに料理としていろいろつくられていたことが、当時の古墳の壁画や出土品などによっても示されている。海に面する地方では古くから魚貝類を生食する風習のあったことは『斉民要術(せいみんようじゅつ)』に記述されているが、13世紀に遊牧民が勢力を得て、元(げん)の時代になってからは生食の習慣はほとんどなくなったといわれている。野菜の豊富な平野ではその食べ方が研究され、また砂漠地方や山岳地方など暑熱、寒冷の厳しい地方では、それぞれの条件に適した食生活が、調理による医療も加えて長年の経験から研究されている。いまなおその原形を失わずにそれぞれ地域名を付した料理として、各地方独自の特徴ある料理が発達し、現在中国料理は世界の人々に愛好されるに至ったのである。
[野村万千代]
(1)北京(ペキン)料理 北京、天津(てんしん)を中心とする地方の料理で、清(しん)朝の盛時に宮廷料理とよばれる高級料理として発達した。北京は内陸にあり、寒冷の地なので一般に鹹(から)い、濃厚な料理が多く、揚げ物、炒(いた)め物や直火(じかび)焼きの烤(カオ)料理が優れている。また、米の生産が少ないため、小麦を材料とする饅頭(マントウ)や麺(めん)類などの粉食が多い。
(2)南京(ナンキン)料理 南京は古い都であり、北京が北部料理を代表するように、中国の中部の料理を代表するものである。南京を中心に、長江下流地域一帯の平原は、中国でも代表的な米の生産地だけに、米を多く食し、米を材料にした料理も多い。南京に近く海に面して上海(シャンハイ)があり、湖沼にも富むため、多くの水産物すなわちカニ、エビ、水鳥などの料理に定評があり、よってこの地方を代表して「上海料理」とする人もある。
(3)広東(カントン)料理 中国南方の代表的な料理である。広東は暑熱の厳しい土地のため、味は比較的淡泊で、海に近いので、魚、エビ、カニなどの海産物を使った料理が多く、汁物料理の多いのも特色の一つである。広東料理は現在香港(ホンコン)において受け継がれている。上海と広東との間の沿岸部に福建地方があり、細やかな風味と豊かな色彩に富む料理で有名である。「食は広州(こうしゅう)に在り」といわれ、広州はうまいものの本場と自認しているが、ヘビやイヌ、タヌキなどいわゆるげてもの料理でも有名である。ヘビ料理は、毒ヘビ2匹に毒なしヘビ3匹の割合とし、このときヘビの胆汁を白酒(パイチウ)に入れて、美しい緑色の酒を飲みながらヘビ料理を食べるとか、あるいはクマの掌(てのひら)料理は、クマが冬眠の際に蜜(みつ)を貯える左手を用いる、などいろいろ研究されていて興味深い。
(4)四川(しせん)料理 雲南(うんなん)、四川など山地方面の料理である。素朴でニンニク、トウガラシ、ショウガなどの香辛料を多く使用する風習があり、奥地のため食品の貯蔵法が研究されて、その調理法もよく発達し、野菜料理に特徴がある。とくに竹蓀(チュースン)、銀耳(インアル)の産地として名高く、料理も優れており、漬物が発達している。
中国には、このほかにも民族、生活環境、習慣、宗教上などの理由から、ブタはまったく使われず羊肉料理の発達した回族料理など、各地方によって異色あるものが多い。
[野村万千代]
6世紀に日本に仏教が伝来したと同時に、中国料理も僧侶(そうりょ)によってもたらされた。したがって戒律厳しい精進料理が主であったという。すなわち日本人と中国人との交渉は僧侶に始まり、中国の食品や調理法はこれら僧侶が伝えたものが多く、普茶(ふちゃ)料理をはじめほとんどが精進料理であった。江戸時代に中国との交流が頻繁になり、中国の総菜(そうざい)料理が長崎で取り入れられて卓袱(しっぽく)料理ができたが、一般的ではなかった。また明治時代になって神戸、横浜の開港場に中国人の料理店ができたが、客はほとんど中国人ばかりであったという。
明治の末ごろ東京・日比谷(ひびや)に、日本人の中国飯店ができたが、やはり一般向きではなく、関東大震災(1923)後にようやく、中国各地の特色料理や一品料理を食べさせる大衆的な中国料理店が所々にできたのである。第二次世界大戦後急激に発展し、中華料理ともいわれ、現在では日本の家庭でも大いに応用されている。
世界各国との交流が盛んになるにつれ、また中国の国情から、現在は中国各地の特色ある料理の特異性が、すこしずつではあるが失われ、平均化されつつある状態である。
[野村万千代]
中国は文字の国であり、したがってその使い方が厳しく、料理名は、その材料、切り方、調理法などを明白に表現したものが多いので、それらを知る必要がある。
〔1〕炒菜(チャオツァイ) 少量の油を用いて炒(いた)める料理で、器具は中華鍋(なべ)(鍋子(クオツ))と鉄のへら(鉄鏟(ティエチャン))だけでつくることができ、日常総菜(家常菜(チヤチャンツァイ))としてもっとも多くつくられる。特徴は、短時間に手軽にでき、野菜などもゆでずに生(なま)のまま炒めることが多いので、緑色も美しく栄養の効率が高い。油は、本来は材料が動物性の場合は植物油(素油(スーユー))で、材料が植物性のものは動物油(葷油(フンユー))で炒めるが、一般には大豆油、菜種油、落花生油などを用いることが多い。例、炒白菜(チャオパイツァイ)(ハクサイの炒め物)、炒雞丁(チャオチーティン)(賽の目(さいのめ)切りの鶏炒め)。
〔2〕炸菜(チャーツァイ) 油で揚げた料理。炒菜とともに中国料理の代表的な調理法である。(1)清炸(チンチャー) 衣なしで揚げる。例、硬炸醋魚(インチャーツーユイ)(干魚のから揚げ酢漬け)。(2)乾炸(カンチャー) 乾いた粉をつけて揚げる。例、乾炸松笠魚(カンチャーソンリーユイ)(鯉(こい)のから揚げ)、炸雞子(チャーチーツー)(鶏のから揚げ)。(3)軟炸(ロワンチャー) 衣をつけて揚げる。例、軟炸鮮魚(ロワンチャーシエンユイ)(魚のてんぷら)。(4)炸高麗(チャーカオリー) 高麗とは白を意味し、白揚げのこと。例、炸高麗銀魚(チャーカオリーインユイ)(シラウオの白揚げ)。
〔3〕蒸菜(チョンツァイ) 蒸し物で、中国特有の蒸籠(チョンロン)を用いる。この蒸籠(せいろ)の特徴は、熱の通りが早く、形がくずれないで栄養の損失も少ない。例、蒸糯米牛肉丸子(チョンヌオミーニウロウワンツー)(牛肉団子の糯米(もちごめ)蒸し)、蒸蛋黄花(チョンタンホワンホワ)(卵蒸し)。
〔4〕溜菜(リウツァイ) 炒菜(チャオツァイ)、炸菜(チヤーツァイ)、蒸菜(チョンツァイ)のあんかけ料理。あんをかけることによって味を落ち着かせ、舌ざわりをよくし、温度を逃がさない。あんには次のようなものがある。(1)糖醋溜醤(タンツーリウチャン) 甘ずっぱいあんのこと。例、糖醋溜丸子(タンツーリウワンツー)(肉団子の甘酢あんかけ)、古滷肉(クールーロウ)(酢豚)。(2)溜醤(リウチャン) 酢を入れないあん。例、溜南瓜(リウナンコワ)(カボチャのあんかけ)。(3)玻(ポーリー) 無色透明のあん。例、玻冬瓜(ポーリートンコワ)(蒸しトウガンの薄あんかけ)。(4)奶溜(ナイリウ) ミルクあん。例、奶溜魚片(ナイリウユイピエン)(魚の牛乳あんかけ)。(5)杏酪(シンラオ)、杏露(シンルー) 杏仁(きょうにん)の汁をあんに入れたもの。例、杏酪蝦球(シンラオシャチウ)(エビ団子の杏仁あんかけ)。(6)蕃茄汁(フアンチエチー) トマトケチャップを入れた西洋風あん。例、蕃茄汁炸魚(フアンチエチーチヤーユイ)(揚げ魚のトマトケチャップかけ)。
〔5〕菜(ホイツァイ) 油を使わない煮物にあんをかけた料理。例、雞蓉蝦仁(チーロンシャレン)(エビの鶏あんかけ)。
〔6〕煨菜(ウエイツァイ) 煮込み料理。燉(トウン)、燜(メン)、熬(アオ)、(アオ)、滷(ルー)など小異はあるが、材料を一度炒めたり、揚げたり、蒸してから、ゆっくり煮込むものが多く、比較的高級料理に属する。香辛料を用いることも多い。例、東坡肉(トンポーロウ)(豚肉のやわらか煮)、滷菜(ルーツァイ)(煮しめ料理)。
〔7〕烤菜(カオツァイ) 直火(じかび)焼き料理で、料理によっては特別の炉を用いる。例、烤羊肉(カオヤンロウ)(モンゴルのジンギスカン焼き)、烤鴨子(カオヤーツ)(北京で有名なアヒルの掛炉(コワルー)焼き)、烤白薯(カオパイシユー)(焼きいも)。
〔8〕湯菜(タンツァイ) スープで、日本の椀物(わんもの)に相当する。献立のなかで湯菜を供する順位は一定していないが、多くはご飯のときに湯菜を供する。しかし前菜のあと、その宴席の最高の主要材料を湯菜に使った場合は、まずその湯菜が最初に供される。それによって、とくに食欲を誘う意味が含まれている。湯菜には次のようなものがある。(1)清湯(チンタン) 澄ましスープ。例、清湯燕菜(チンタンイエンツァイ)(ツバメの巣のスープ)。(2)奶湯(ナイタン) 濁ったスープや野菜スープ、牛乳入りスープなど。例、玉蜀黍奶湯(ユイシユーシユーナイタン)(トウモロコシ入り牛乳スープ)。(3)会(ホイ) 薄葛(うすくず)入りスープ。例、会四鮮(ホイスーシエン)(いろいろの材料入り葛かけ)。(4)羹(コン) 会(ホイ)より味、葛ともに濃厚なあんかけ。例、芙蓉羹(フーヨンコン)(むらくも卵汁)。(5)川(チョワン) 宴席の献立中にスープは1種に限らず、大献立ともなると2~3種を供する場合もある。そのときの料理名は湯(タン)だけでなく、川を用いる。川は湯と大差はないが、多少高級スープの意味を有する。例、川三鮮(チョワンサンシエン)(3種の材料入りスープ)、川鮑魚(チョワンパオユイ)(アワビ入りスープ)。
〔9〕火鍋子(フオクオツ) 火鍋(フオクオ)という、鍋(なべ)とこんろがいっしょになっている中国の特殊鍋にスープを入れ、山海の珍味を取り合わせて煮ながら食べる鍋料理で、晩秋から初春にかけて喜ばれる。鍋料理は各自好みの材料を、好みの煮加減で、また好みの薬味(やくみ)などで自由に調味できるところに、他の及ばぬ妙味があるが、味は一般に薄味のスープで煮る。薬味としては、ショウガ、ニンニク、辣椒油(ラーチヤオユー)、練りがらし、酢、蝦油(シャーユー)など。例、什景火鍋子(シーチンフオクオツ)(五目寄せ鍋)、涮羊肉(シヨワンヤンロウ)(羊肉の霜ふり煮)。鍋料理は献立の終わりに出して、ご飯と醃菜(イエンツァイ)(漬物)で終わるときもある。また鍋を中心に、2種か3種の前菜と、主食としてご飯、饅頭(マントウ)など、あるいは麺(めん)を最後に鍋に入れて食べてもよい。
〔10〕鹹菜(シエンツァイ) 漬物のことで、塩漬けはとくに醃菜(イエンツァイ)という。野菜類をしょうゆ、塩、みそ、粕(かす)、糠(ぬか)、からしなどで漬けるが、ニンニク、トウガラシなど中国特有の香辛料を用いることが多い。四川省方面が有名で、この地方では鹹菜をそのまま食べるほかに、湯菜、炒菜などいろいろな料理の材料としても用いる。
[野村万千代]
〔1〕豚肉 中国料理には肉(ロウ)という語がよく出ているが、それはブタの肉で、ウシやヒツジはかならず牛肉(ニウロウ)、羊肉(ヤンロウ)と書くことになっている。豚肉は一般にどの部分も柔らかで、脂肪に富み、ビタミンB1が多い。食肉用には去勢した若い雄豚や分娩前の雌豚が美味という。豚肉はあらゆる料理に向き、またそのひづめ、舌、耳、脳、皮、軟骨、内臓なども料理に利用される。これは中国料理の特色の一つでもあるが、寄生虫がいるので調理にあたっては十分加熱に注意を要する。
〔2〕ニワトリ、アヒル ニワトリはひなの雌雄、老鶏などでそれぞれ調理法が異なり、生後10~15週の雌鶏が繊維も細く柔らかで美味という。老鶏はスープの材料によい。ニワトリのもっともおいしい季節は秋から冬にかけてである。アヒルもニワトリ同様に1年以内の柔らかいものがよく、アヒルの丸焼きは有名である。卵は皮蛋(ピータン)、鹹蛋(シエンタン)につくられる。
〔3〕エビ エビは形や色が美しいうえに独特の香味をもつので、エビ単独の料理のほかに、豚肉や鶏肉、魚の身に混ぜて用いることが多い。また殻からスープをとり、蝦油(シャーユー)など特殊調味料もつくり、中国料理には貴重な材料である。
〔4〕笋(スン)(タケノコ) タケノコは広く中国料理一般に用いる。掘ってから4~5時間以上たったものは、一度ゆでてあく抜きをしてから使用する。
〔5〕筍乾(スンカン)(シナチク) 干したタケノコ。皮を除いて10時間余り蒸して、縦に棒を通して節に穴をあけ、それに重石(おもし)をかけて汁を絞り、干したものである。絞り汁は笋油(スンユー)として調味料にする。筍乾は台湾、広東が主産地である。これをもどすには、白い濁り汁が出なくなるまで、2、3日水や湯につけて水を取り替え、膨れてきたらゆでてまた水にさらして臭みを抜き、たたきショウガを入れてふたたびゆで、よく水にさらしてから料理に用いる。とくに味はないが、歯切れがよいので好まれる。
〔6〕香菇(シャンクー)(香菌(シャンチユン)) シイタケで、タケノコとともに広く一般料理によく用いられる。干しシイタケのほうがだしがよく出るので、生(なま)のものよりよく使われる。かさがとくに厚く表面に亀裂(きれつ)の入っているものを冬菇(トンクー)といい、香り、味ともにいいので好まれる。
〔7〕木耳(ムーアル)(キクラゲ) 中国産、南方産のものは柔らかく大きく、歯切れもよいので上等品。日本産のものは硬くて小さい。温湯につけてもどしてから、石づきをちぎりとって使う。
〔8〕豆芽菜(トウヤーツァイ)(豆もやし) ダイズ、クロマメ、インゲンなどからつくるが、柔らかで風味もよく、ビタミンCに富み安価なので、家常菜(チヤチャンツァイ)用に広く使われる。長時間加熱すると、しなびてまずくなるので、短時間で仕上げる。
〔9〕干貝(カンペイ) ホタテガイ、タイラガイの貝柱を干したもので、あまり形の大きくない、形の整った飴(あめ)色のものが良品である。中国人はこれを非常に愛好し、スープその他広く料理に使用する。もどし方は、蓋(ふた)のきっちりできる深い小鍋に干貝を入れ、酒を水で3倍に薄めてひたひたに入れ、きっちり蓋をしてごく弱い火にかけると、30~40分でぽろぽろと指先でほぐれるようになる。これを細く裂いて、煮汁とともにいろいろな料理に用いる。
〔10〕粉条(フエンテイヤオ)(はるさめ) ジャガイモ、コウリャン、トウモロコシなどのデンプンを糸状にして乾燥させたもので、豆そうめんともいう。安価で栄養に富み、保存しやすい。細くてつやのあるものが最上等品で、味もよい。もどすときは、10分ぐらい湯につける。湯菜、炒菜、冷菜(ロンツァイ)、溜菜、炸菜などに向く。
〔11〕豆腐(トウフ) 種類によって固さが異なるので、用途によって選択するとよい。次のような種類がある。(1)水豆腐(シユイトウフ) 日本の豆腐よりすこし固い。(2)乾豆腐(カントウフ) 日本の焼き豆腐より固く、加工豆腐の原料にしたり、切って油で炒めたりする。(3)油豆腐(ユートウフ) 皮の薄い生揚げ豆腐、すなわち揚げ出し豆腐である。(4)豆腐脳(トウフナオ) 腐脳(フーナオ)ともいう。絹漉(きぬご)豆腐よりも柔らかで、ひとかたまりとなっているので、杓子(しゃくし)ですくいとって用いる。
〔12〕藕粉(オウフエン)(蓮根(れんこん)からとったデンプン) 中国では料理に濃度をつけるのに藕粉を用いる。かたくり粉のように粉末状でなく、水分を含んで湿った固形物である。乾燥させてほぐすと、かたくり粉と同様に粉状になるが、固形のままのほうが水に溶かす必要もなく、そのまま使えるので便利である。しかし酸敗しやすいので、現今はかたくり粉を多く用いている。
[野村万千代]
(1)塩(イエン) 中国では料理人へのだいじな教訓として、「料理は塩に始まって塩に終わる」ということばがある。すなわち、控え目に調味し、最後の仕上げの味つけをするとよい。たとえば、ハクサイを煮て白く仕上げる場合に、塩を入れてから長時間煮ると、ハクサイの白い部分が黄色を帯び、そのうえ渋みが出てくるので、仕上げのときに塩を用いるなど、塩は単に味だけでなく料理の仕上がりを左右するので、使い方にはとくに注意しなければならない。
(2)糖(タン)(砂糖) 中国では砂糖は点心類に多く用いることはあるが、一般料理には特殊なもの以外はほとんど用いない。北京料理はとくに使わない。砂糖は甘い味だけでなく、材料の組織を引き締める性質があるので、用い方に注意を要する。
(3)醤(チャン)(みそ) 醤の種類は20種ほどあるという。豆醤(トウチャン)は原料がダイズで、水分の多いものを面醤(ミエンチャン)、水分の少ないものを黄醤(ホワンチャン)という。中国のみそは日本のもろみのようなもので、おもに肉類、魚類、貝類、内臓などの臭み消しに用いることが多い。
(4)甜麺醤(ティエンミエンチャン)(甜醤(ティエンチャン)) 小麦粉に麹(こうじ)を加えてつくった甘いみそで、豚みそうどんなどに用いる。醤に砂糖と酒を加えてまにあわせることもある。
(5)海鮮醤(ハイシエンチャン) ダイズでつくった醤に、トウガラシ、ニンニク、香辛料を入れた甘みそで、広東料理に多く使用される。
(6)醤油(チャンユー) 醤を絞ってとった汁で、日本のしょうゆとよく似ているが、味がすこし異なる。調理の際は最後に加えると香味を失わず、また炒菜には鍋肌(はだ)から入れると醤油の香味を増しておいしい。
(7)醋(ツー)(酢) 拌菜(パンツァイ)、溜菜(リウツァイ)などによく用いられる。調理の仕上げぎわに入れたほうがよい。
(8)酒(チウ) 酒の芳醇(ほうじゅん)な香りを料理に生かし、味を複雑にするので、中国では酒は料理にたいせつな役割をもって多く使用される。日本酒、焼酎(しょうちゅう)を用いてもよい。
[野村万千代]
酒席、宴会を筵席(イエンシー)といい、手軽な食事を便飯(ピエンファン)、日常総菜を家常菜(チヤチャンツァイ)というが、いずれの場合も一そろいの料理をつくるのに、個々の料理の特質、材料、彩り、味つけなど調和のとれるように組み合わせて献立をつくることがたいせつである。献立表を菜単(ツァイタン)、または菜単子(ツァイタンツ)、菜譜(ツァイプー)といい、昔はやかましい規則のもとにたてたといわれるが、国民の生活が変わってきた現在、あまりむずかしいことはいわず、また料理の品数も昔よりは少なくなっている。中国は中華人民共和国となって、国民はみな勤労に従事するようになった。以前はとくに朝飯の献立はなく、宴席か家常菜かによって献立のたて方に大差があったが、近年は各家庭から朝の勤労者が出勤するので、地方によっても多少異なるが、朝食は饅頭(マントウ)や粥(チョウ)とほかに2、3品の菜が普通である。昼や夜は、特別の宴席でないときは、家常菜として4~6品くらいとし、都市では、一つの菜を調理するのに必要な食品のいろいろを一皿に盛り合わせて市場で売っている所もあり、食品のむだ買いのないようにする国の配慮がしのばれる。地方の奥地などでは、昔ながらの手押し車に野菜を積んで露天で売ったり、羊肉や鶏肉、あるいは主食としてナンなど露天売りのにぎやかな所もある。ナンは中国でも西方アラブ系の人たちの主食(アラブパン)で、直径20~30センチメートルくらいの円形の比較的薄い、焼いてつくったパンである。
一般に宴席の献立の内容は次の(1)~(4)に大別されるが、中国では、料理の材料や品数は一般に偶数で組み立てる。
(1)乾果(カンクオ)(京果(チンクオ))・糖果 これらは料理コースの前菜の前に運ばれる献立外のつまみもので、日本では宴席の前菜の間に並べられているのを多く見受けるが、これは正式ではない。酒の少ない婦人客の場合は、料理のつなぎものとして食べても差し支えないが、本来は客が互いに待ち合わせる部屋でのつまみものである。乾果は瓜子(コワツ)(スイカやカボチャの種子を炒ったもの)、向日葵子(シャンリーコイツ)(ヒマワリの種子)、松子(ソンツ)(松の実)、核桃(ホータオ)(クルミ)、花生(ホワシヨン)(ラッカセイ)、杏仁(シンレン)(アンズの種子の中にある仁)、桂圓(コイユワン)(リュウガン肉)などである。糖果は蜜餞蓮子(ミーチエンリエンツ)(ハスの実の砂糖漬け)、糖青果(タンチンクオ)(オリーブの実の砂糖漬け)などである。
(2)前菜(チエンツァイ)・冷菜(ロンツァイ)・冷葷(ロンフン)・冷盆(ロンペン)・拼盤(ピンパン) 普通は冷菜四品と熱盆(ローベン)2~4品、それに一つの拼盤が加わる。前菜の材料は自由だが、前菜によって調理人の腕がわかるといわれるので、調理人はこれに趣向を凝らすという。前菜は本来、酒の肴(さかな)であることを考え、冷葷は冷たくして、また冷たくなってもおいしいものであり、熱盆は客の着席を待って熱いところを供さなければならない。拼盤とは、いろいろの冷菜を大皿に盛り合わせて前菜として供するもの。古い時代には前菜の皿は偶数で、それぞれ一品ずつ前菜用の器に、前菜総体として材料、味、色彩の調和がとれるように盛って供されたが、近来、拼盤として花鳥その他の図柄を大皿に冷菜で描き、美しく盛り合わせて食卓に供することが多くなった。高級宴席ともなると、拼盤のほかに一品盛りの冷菜も数種食卓に供されて、ひとしお華やかである。
(3)本菜(ペンツァイ)・大件(ターチエン)・大碗(ターワン)・熱盆(ローペン) 宴席の主要料理で、普通、料理数は6~8種だが、大宴席ではこの倍となることもある。前菜の品数の多いときは本菜も多い。本菜では、その筵席(イエンシー)の代表料理を最初に供する慣習で、たとえば燕窩席(イエンウオシー)のときは、燕窩(イエンウオ)(ツバメの巣)の料理が最初である。主要料理が供されたあとは、料理の種類にこだわらず適当な順序で運ばれて、終わりに鯉(こい)、その他の高級魚の一魚料理と湯菜、飯または粥となる。飯のときに火鍋子(フオクオツ)を供することもあり、鹹菜(シエンツァイ)をもって終わる。飯や鹹菜は献立表には記さない。
(4)点心(ティエンシン) 宴席の点心は一般に点心(小食、菓子など)といわれているものとは多少異なる。宴席の点心は、献立のなかばよりすこしあとに供され、この点心を食べることによって、それまでの料理の味を新たにする意味をもつものである。したがって点心を供する位置、甜菜(テイエンツァイ)の種類、数を注意深く定めなければならない。菜単子(ツァイタンツ)には、本菜(ペンツァイ)の前かあるいは最後に記載する。点心は八宝飯(パーパオファン)、抜絲栗子(パースーリーツ)、杏仁豆腐(シンレントウフ)などである。
[野村万千代]
最近は日本でも宴会から軽食まで、中国料理を用いる機会が多くなった。
(1)招待状の書き方 客を招待するときは、趣旨、日時、場所を記入した招待状を少なくとも10日ほど前に届け、返事は宴会当日より2、3日前に受け取れるようにする。一般に招待状を請客単子(チンコータンツ)といい、封筒には赤い枠が施され、その中央に宛名(あてな)を書く。中に入れる用紙は請帖(チンテイエ)といい、日時、場所など記入できるように印刷したものもあり、台光(タイコワン)の下に、招待する側の主人の氏名を記入する。菲酌(フエイチユオ)は晩餐(ばんさん)で、杯茗(ペイミン)または茶会(チャーホイ)はお茶の会である。晩餐は午後7時30分以後に始まる。
(2)食卓のつくり方 食卓は角形で8人一卓が正式であるが、多くは8~10人を一卓とし円卓が多くなった。按席(アンシー)(席順)は、入口近くを主人とし、その正面右側が主賓、左側を次席とする。ついで右、左と交互に席を定める。いまは男女同席でよい。人数によって1人分ずつ食器をとりそろえ、酒杯(チウペイ)、小形に切った唐紙(またはナプキン)を置く。料理の取り皿は、汚れたときには幾度でも取り替える。昔、乱世のころには毒殺を防ぐために銀器を用いたので、その名残(なごり)で、いまなお銀器を最高とする。貴顕富豪は1人ずつ銀の叉子(チャーツ)(小型ふたまた)、刀子(タオツ)(ナイフ)、漏匙子(ロウチツ)(穴あきさじ)などもそろえた。来客は主人が出迎え、控え室に案内して、乾果類、たばこ、茶などを勧め、客は互いに待ち合わせる。中国では乾果の殻を床に捨てることもあるが、紙にとるか1か所にまとめて置いたほうがよい。
(3)食事作法 客がそろうと主人に案内されて、食堂の定められた席につく。全員が席につくと、主人は立って一同に酒をつぎ、杯をあげて挨拶(あいさつ)があり、一同はこたえ杯をあげてから飲む。以後は手近な前菜、拼盤(ピンパン)など、各自の箸(はし)で適当にとって食べる。中国ではとり箸は用いない。新しく本菜(ペンツァイ)(熱菜(ローツァイ))が食卓に出されるたびごとに、主人は客の個人を名ざしして杯をあげ、食卓をことほぐ。
(4)食後のマナー 食事が終わったら別室に案内されて茶を供され、麻雀(マージャン)などをして遊ぶ。現在は食堂で食事のあと、ただちにお茶を供されることが多い。往時は招待された家庭で麻雀などで勝った場合は、そのもうけた金は招待してくれた家へ置いてくるのが礼儀であった。あとで、その金は客のために働いた料理人など使用人への心付けとした。
[野村万千代]
中国はお茶の歴史が古く、生活には欠かせないものの一つである。中国のお茶は紀元前から売られており、薬効があるといわれていた。一般大衆に飲まれるようになったのは7世紀以後、唐代になってからといわれる。日本に伝わったのは大和(やまと)・飛鳥(あすか)時代、600年ころで、日本でも栽培を始めたのは815年(弘仁6)嵯峨(さが)天皇の勅令により、近畿地方から始まったという。
中国は所により雨量が少なく乾燥度が高いので、のどの渇きも多く、したがって日本人に劣らず喫茶の風習がある。特別のもの以外は、日本と同様に、土瓶に茶の葉を入れて熱湯を注ぎ、土瓶の口から漉(こ)し出したものを飲む場合と、茶碗(ちゃわん)の中に、あらかじめ茶の葉を入れておき、熱湯を注いで蓋(ふた)をし、蓋をずらして飲むものとがある。近年は茶器も変わり、深いコップ型の茶碗に茶の葉を入れて熱湯を注ぎ、その上澄みを飲むのが多くなった。この場合は、幾度も熱湯を入れ加える。
[野村万千代]
中国の料理書『随園(ずいえん)食単』(1792)のなかに「梁(りょう)の昭明は点心を以(もっ)て小食と為(な)す」と記してある。点心の語は古く唐の時代に始まり、唐・宋(そう)時代は朝食前の小食のみであったが、元(げん)・明(みん)のころは食間の小食も含めて点心といった。日本でも鎌倉時代に禅宗の渡来と同時に点心の語が使われたが、点心についての説は文献により多少異なる。現今、中国料理における点心は、用い方によって次の(1)~(3)に分けられる。
(1)食間の小食としての点心 たとえば、飯(ファン)、粥(チョウ)、(トワン)、糕(カオ)、麺(ミエン)、餅(ピン)、饅頭(マントウ)など、簡単な食事がわりにも用いられているもの。
(2)一献立中に大菜と小菜の中間に供する点心(日本では食後にデザートとして出すこともある) 味覚の転換を図るためのもので、たとえば杏仁豆腐(シンレントウフ)、銀絲栗子(インスーリーツ)、炸高麗香蕉(チャーカオリーシャンチヤオ)、八宝飯(パーパオファン)などである。
(3)一般の菓子類 中国の菓子として市販のものが多種あり、たとえば元宵(ユワンシャオ)、月餅(ユエピン)、芝麻餅(チーマピン)、糖胡蘆(タンフール)、雞蛋糕(チータンカオ)、酥盒子(スーホーツ)、翡翠(フエイツオイトワン)、粽子(ツォンツ)など。
(4)飲茶(ヤムチャ) 中国の古い時代の食生活は、1日に正餐は午前11時ごろからと、午後7時30分以後の二度であったが、これだけでは食生活のうえから不十分なので、おのずからこれに加えて三度の補食、すなわち吃(チ)点心がされるようになった。正餐の間に茶とともにとる点心を飲茶といっている。現在の飲茶は、ワゴンで運んでくる点心(甜点心(ティエンティエンシン)、糕(カオ)類、餅(ピン)、酥餅(スーピン)、羹(コン)、麺類、饅頭類、粥(チョウ)、ときには月餅(ユエピン)、元宵(ユワンシャオ)など)を好みで選び、茶とともにとる。なお、飲茶は広東語で現今は点心類を中心とした軽い食事を意味する。
[野村万千代]
中国の酒の起源はさだかではないが、古く殷(いん)・周の時代に本格的に酒がつくられたという。飲んで陶然とするのが中国の酒で、その種類は多い。唐の詩人李白(りはく)は「玉杯盛りきたる琥珀(こはく)の光」と称し、年を経るにしたがって琥珀色となり、味と香りがよくなる醸造酒を中国酒の代表とした。昔中国では、女の子が生まれると酒を仕込み、嫁入りのときにこの酒甕(がめ)をもって行ったという。宴席では最初に主客乾杯したのちは、主人は新しい料理が出るごとに客を誘って杯をあげ、食卓をにぎわすように気を配ることが好ましい。
[野村万千代]
中国の伝統的な年中行事は大陰暦(旧暦)によって行われる。
(1)年始1月1日から3日ないし5日までは、いわゆる正月で、旧習によれば炊事をすることなく、旧年中に準備した料理を食べる習慣である。北京地方では、元日は饅頭、2日は餃子、3日はワンタン、4日は麺、5日は米飯という慣行もあった。また精進料理のみという所もある。年賀の客には、元宝茶(ユワンパオチャー)とお菓子を出した後に酒肴(しゅこう)を供する。肴は卓盒(チュオホー)という重箱に入れ、年節酒(ニエンチエチウ)を正月の酒とともに供する。古くは日本と同様に、屠蘇(とそ)酒を用いたというが、現今はこれに類した薬酒等を使用する。1月6日は、財神祭で、元宝湯(ユワンパオタン)を食べる。1月15日は元宵節(ユワンシャオチエ)で、満月の夜、各家庭では元宵団子をつくり、家々の軒先の灯籠(とうろう)には火を入れて、各自着飾って賑やかに正月を送るのである。
(2)2月3日(立春) 春餅(チュンピン)を食べる。正月も過ぎて立春の節句には、春を迎え萌(も)え出る春の野菜として、ニラ、生ダイコンなどを餅(ピン)に巻いて食べ春を祝うので咬春(ヤオチュン)ともいう。
(3)5月5日(端午節(トワンウーチエ)、菖蒲節(チャンプーチエ)) 端午の日は英雄、楚の屈原の霊を慰める日ともいわれ、この日は菖蒲酒(チャンプーチウ)を飲み、いろいろのあんを包んだ餅を笹(ささ)の葉でくるみ、各家自慢の粽子(ツォンツ)(ちまき)をつくって配り合い、これを食べて互いに健康を祈り合うのである。餅の中のあんには、ナツメ、ハスの実、アズキなどのほかに、火腿(フオトイ)(ハム)、鶏肉などの肉類を入れたものもある。笹竹は防腐力が強い。
(4)7月7日(七夕節(チーシーチエ)、乞巧節(チーチヤオチエ)) 織女節ともいいこの日は庭に七夕(たなばた)を日本同様に飾り、果物や酒を供えて、天の川を見ながら七夕糕(チーシーカオ)を食べる慣習があった。牽牛、織女の物語から星に女の子の願い事をかなえてもらうという考えは、日本と同様である。
(5)7月15日(盂蘭節(ユイランチエ)・中元節(チョンユワンチエ)) 仏教からきた行事で、死者や祖先の霊を祭る日である。各寺院で祭礼があり、祖先の霊が家庭に帰ると考え、供え物をし、油餅(ユエピン)や荷葉餅(ホイエピン)(ハスの葉の形にした餅)をつくって食べる。
(6)8月15日(中秋節(チョンチウチエ)) この日各家では月餅(ユエピン)をつくって月に供えたり、互いに贈答したりする。各家により、また地方によっていろいろの月餅があり、卵を餅の中に入れて満月になぞらえたものもあるなど、興味深い。
(7)9月9日(重陽節(チョンヤンチエ)、菊花節(チュイホワチエ)) この日は菊花酒を飲み、烤羊肉(カオヤンロウ)や重陽糕(チョンヤンカオ)を食べる。このころから糖包胡蘆(タンパオフール)や山査糕(シャンチャーカオ)をつくる。秋空が澄み渡り菊の美しい季節に、故郷を離れている人は、これらを食べて互いに家族をしのびあい、ふるさとを懐かしむという。
(8)12月8日(臘八節(ラーパーチエ)) この日はおもに北方地方では臘八粥(ラーパーチヨウ)(五目粥)をつくり、それぞれくふうを凝らしたものを互いに贈答して、五穀の祝いをする。
(9)12月21日(冬至) 餛飩(フオントウン)を食べる。
(10)12月31日(除夕(ツーシー)) 除夜の晩は客年餐(コーニエンツアン)または年夜飯(ニェンイエファン)をつくり、家族だけの忘年会をして、夜明かしをする。年餐(ニエンツアン)や年飯(ニエンファン)は、魚やニワトリなど、頭と尾のついた丸料理を10品内外つくる。外では爆竹が鳴り響いて、元旦をにぎやかに迎えるのである。
[野村万千代]
『袁枚著・青木正児訳註『随園食単』(岩波文庫)』▽『高木健夫著『北京横丁』(1943・大阪屋号書店)』▽『槇浩史著『中国名菜ものがたり』(1978・鎌倉書房)』▽『野口定男編『中国史談I 春夏秋冬物語』(1958・河出書房新社)』▽『大谷彰著『中国の酒』(1974・柴田書店)』▽『石毛直道編『東アジアの食の文化』(1981・平凡社)』▽『中山時子・陳舜臣監修『中国料理大全』全5巻(1985~86・小学館)』
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