日本大百科全書(ニッポニカ) 「終戦工作」の意味・わかりやすい解説
終戦工作
しゅうせんこうさく
第二次世界大戦末期の日本で、戦争の終結を図ろうとして行われた政治工作のこと。中国との戦争が解決しないのに、国力、生産力において圧倒的差のある米英に対して開戦した太平洋戦争は、もともと日本にとって無謀な戦争であったから、開戦の当初から戦争の前途に不安をもつ者は少なくなかった。戦局が不利になると、なんとか戦争を早期に終わらせようとする試みが支配層の内部に生まれた。1944年(昭和19)6月、マリアナ諸島が失陥すると、岡田啓介(けいすけ)、若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(きいちろう)らの重臣は状勢の転換を図るために内閣の打倒を企て、内大臣木戸幸一(こういち)と謀って東条英機(ひでき)内閣を総辞職に追い込んだ。しかしこの東条打倒工作は、「戦争完遂」を叫ぶ小磯国昭(こいそくにあき)内閣を出現させただけに終わり、終戦工作とはならなかった。また小磯内閣成立後、中国人繆斌(みょうひん)を通じて、重慶(じゅうけい/チョンチン)の国民政府との和平交渉のルートを探ろうとした繆斌工作、45年4月シベリア経由で帰国した駐日スウェーデン公使バッゲを通じて、連合国側に和平条件の探りを入れようとしたバッゲ工作、スイス駐在海軍武官藤村義朗(よしろう)中佐らがアメリカの情報謀略機関のアレン・ダレスとの接触を図ったダレス工作などが終戦工作としてあげられることがあるが、いずれも日本政府が正式に取り上げたものではなく、成果もあげなかった。
最高戦争指導部がかかわった唯一の和平工作といえるものは、1945年6月から行われた、当時のソ連に対する国交調整の申し入れである。初め広田弘毅(こうき)元首相がマリク駐日ソ連大使に漠然と交渉を申し込み、ついで佐藤尚武(なおたけ)駐ソ大使にソ連側との交渉を命じたことから正式の交渉となった。ソ連側からの交渉の意図についての質問に対し、和平の斡旋(あっせん)依頼だと答えて、近衛文麿を天皇の特派使節として派遣しようとした。しかし45年2月のヤルタ会談で、米英に対して対日参戦を約していたソ連は回答を引き延ばし、交渉はなんら具体化しないうちに、ポツダム宣言、ソ連参戦を迎え、この終戦工作も失敗に終わった。
[藤原 彰]