改訂新版 世界大百科事典 「南朝陵墓」の意味・わかりやすい解説
南朝陵墓 (なんちょうりょうぼ)
Nán cháo líng mù
中国,東晋から陳まで(317-589),南朝の都は建康城(現,南京市)にあった。建康城をとりまく丘陵地帯には,南朝歴代の帝王陵や貴族墓が多数残っている。南京市東北郊の富貴山・幕府山・棲霞山,江寧県,句容(こうよう)県,さらに遠く離れた円陽県で,31基の南朝陵墓が確認されている。
円陽県は南京の東約80kmに位置し,南斉・梁の〈王家の谷〉ともいうべき葬地である。南朝の陵墓はすでに破壊されており,副葬品の構成などについては不明である。だが構造上では北朝陵墓とは異なった展開を示しており,次のような特色をもち,優雅な六朝芸術の一端を示している。丘陵の中腹,浅い谷の奥まった所に墓室を築き,円墳を盛り上げる。墓室はあらかじめ掘られた長方形の竪穴につくるが,漢代の竪坑ほど深くない。墓室は塼(せん)と呼ばれる煉瓦状の焼物で構築し,長方形,隅切長方形,隅丸長方形の平面形をとり,南の短辺に細長い羨道をつける。天井はともにアーチ式であり,床には棺を置く棺台をつくる。塼には蓮華文など六朝風の文様を型押しで施すのが一般的で,浮彫風の画像塼によって壁画を描いたものもある。羨道には木ないしは石の門を取り付けるが,前者が古い形式。また,帝陵が二重,王陵が一重という違いがある。墳丘の南方に墓への参道ともいうべき神道(しんどう)が設けられ,入口に悪霊を防ぐ怪獣1対,墓主の姓名を記した石柱1対,墓室の履歴を記した石碑1枚を立てている。また,遺構は残っていないが,礼拝用の寝廟がつくられたことが記録されている。
執筆者:町田 章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報