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障屏画 しょうへいが

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

障屏画
しょうへいが

壁画屏風絵の総称。「しょうびょうが」とも呼ぶ。障壁画は絹や紙に描いた絵を障子,ついたて,襖など可動的な間仕切り用具の両面に張付けた障子絵と,壁面に張った壁張付絵とに分けられ,室内装飾画として古くから日本で特殊な発展をとげた。さらに杉戸絵などの板絵もこれに含めて考えられる。屏風の形式は7世紀末頃に新羅から移入されたといわれるが,天平勝宝8 (756) 年には正倉院に現存の『鳥毛立女図屏風』をはじめ,聖武天皇遺愛の屏風 100帖が東大寺に献じられており,そのうち 21帖は画屏風であった。また同時代の諸大寺には浄土図などの大きな障子絵があったことが記録される。平安時代には公私にわたり屏風障子絵が普及した。特に9世紀末以後,屏風障子絵の主題はそれまでの理想化された中国の風景や故事,風俗から,日本人に親しみやすい自然や日常の風俗を描き出すようになる。特に和歌を媒介とした四季絵,月次絵 (つきなみえ) ,名所絵などの形式が成立し,やまと絵と呼ばれた。絵画の様式や技法も次第に唐風を脱却し,独自な風景,風俗画が障屏画を中心に形成され,鎌倉時代に引継がれていく。一方,宋元画の影響によって水墨障屏画が行われた。近世に入ると大画面の金碧障屏画として花鳥図や風俗図が好まれ,狩野派をはじめ海北派,長谷川派などが活躍し,宗達光琳派,円山四条派や南画系の画家が障屏画に手腕を発揮した。

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百科事典マイペディアの解説

障屏画【しょうへいが】

障壁画

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

障屏画
しょうへいが

障壁画つまり障子絵や壁貼付絵(はりつけえ)などと、屏風絵(びょうぶえ)の総称。障子というのは、古代では襖(ふすま)・衝立(ついたて)・板戸などを総括的にさし、屏風とともに家屋の中で移動できる建具・調度であった。なお、障子、屏風に加えて床の間、違い棚の壁貼付絵も障屏画に含まれる。
 また、土壁や板壁に直接描いた壁画をもあわせて障壁画という場合もある。
 障子と屏風は、平安時代の貴族たちの住居である寝殿造(しんでんづくり)から中世の書院造を経て現代に至るまで、日本家屋の主要な間仕切りとして使用されているが、これに絵を描いて住宅の室内装飾とすることが古くから行われてきた。平安時代の宮廷・寺院の障屏画は、初め中国の事物を描いた唐絵(からえ)が多かったが、しだいに日本の四季の風物、毎月の行事、諸国の名所などを主題とした大和絵(やまとえ)が盛んに描かれるようになった。これら古い障屏画の作品は、寺院、住宅とともにほとんど失われ、わずかに、仏寺の儀式に用いられたもので、平安時代の唐絵の山水(せんずい)屏風1双が京都・東寺に、鎌倉時代の大和絵の山水屏風1双が京都・神護寺に残されているにすぎない。しかし、平安・鎌倉時代の絵巻作品には、住宅の内部を描いた場面がかなりあり、またそのころの物語など文学作品にも書き記されていて、それらによって当時の盛んな障屏画のありさまを推測することができる。
 鎌倉時代以後の中世に入ると、宋元画(そうげんが)の作風を取り入れて水墨による山水花鳥が障屏画の主要な画題として描かれるようになったことが、これも当代の絵巻中にみることができるが、室町時代になると、禅宗寺院で盛んに描かれるようになった。当時の作品として現存するものに、周文筆と伝える『山水図屏風』数点(東京・前田育徳会、同静嘉堂(せいかどう)、奈良・大和文華館など)、伝曽我蛇足(そがだそく)筆『山水図襖絵』(京都・真珠庵(しんじゅあん))、小栗宗湛(おぐりそうたん)・宗継(そうけい)筆『蘆雁(ろがん)図襖絵』(東京国立博物館)、伝狩野元信(かのうもとのぶ)筆『山水花鳥図』(京都・大仙院、現在掛幅に改装)、相阿弥(そうあみ)筆『山水図襖絵』(大仙院)、狩野秀頼(ひでより)筆『高雄観楓(かんぷう)図屏風』などがある。
 近世の桃山時代に入ると、織田信長の安土(あづち)城、豊臣(とよとみ)秀吉の大坂城と伏見(ふしみ)桃山城、徳川家康の江戸城など、全国各地に諸大名の豪壮な城郭や邸宅が建てられ、その内部装飾として豪華な濃彩の金碧画(きんぺきが)(金地に濃彩を施した絵画)や大胆な手法を駆使した雄渾(ゆうこん)な水墨画などの障屏画が現れ、空前絶後の盛観を呈するに至った。この桃山時代を中心として、その前後にわたる近世初期は障屏画の黄金時代であったが、その主力となった作家群のなかで指導的役割を果たしたのが、室町時代以降幕府の御用絵師であった狩野派であり、室町末期に活躍し近世初期障屏画の成立に画期的な業績を示した狩野元信の画業をさらに大きく開花させたのが永徳(えいとく)、山楽(さんらく)たちであった。この画壇の主流であった狩野派に対抗する野党的存在ともいうべき諸派に、長谷川(はせがわ)派、海北(かいほう)派、雲谷(うんこく)派、曽我(そが)派があり、それぞれユニークな画風をもって活躍した。
 これら漢画系諸派に対し、伝統的な大和絵系の画風を堅持する土佐派の絵師たちも障屏画の領域に新境地を開き、風俗画では岩佐(いわさ)派が画壇に新風を吹き込み、町衆の庶民文化を基盤とした町絵師のグループの進出を促し、近世初期の障屏画は一派に偏ることなく、多様化の現象をみせるに至った。
 この時代の作品の多くは、智積院(ちしゃくいん)、南禅寺、妙心寺、大覚寺、三宝院など京都およびその近辺の諸寺院に残っており、なかには城郭や殿第(でんだい)から移された作品も残っていて、京都の寺院は障屏画の宝庫ともいえる。また当時の城内邸宅の遺構としては、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)造築の名古屋城が第二次世界大戦の戦災により焼失し、現存するものは1625年(寛永2)ごろ建てられた京都・二条城だけとなった。
 もともと、障屏画は大画面を構成する装飾的な様式が基本であり、そのことは古代から共通してみられる障屏画の日本的特色である。近世初期はわが国の金銀の産出も多く、海外貿易も盛んであり、巨富を積んだ豪商町衆の台頭も著しく、文化の担い手は町衆へと移り、この基盤にたって、町絵師の流れをくむ俵屋宗達(たわらやそうたつ)やその画系を継ぐ元禄(げんろく)(1688~1704)の尾形光琳(おがたこうりん)らは、障屏画の領域でも狩野派にはみられない日本的情趣を時代感覚に融合させた装飾性の濃い大画面の創出を達成した。しかし江戸時代を全般的にみると、寺院や邸宅の障屏画の制作は依然として衰えをみせなかったが、格調の高い芸術性を備えた作品は少ない。そのなかでも、多少とも意欲的に大画面の障屏画に取り組み、優れた作品を残した作家をあげれば、南画派の池大雅(いけのたいが)、写生派の円山応挙(おうきょ)およびその門人で師の画風から離れ個性的表現をみせた長沢蘆雪(ろせつ)らがいる。
 近代になると、横山大観、菱田春草(ひしだしゅんそう)、下村観山、平福百穂(ひらふくひゃくすい)をはじめとする日本画家は、いずれも日本近代画史に残る代表作を屏風の形で発表したが、生活様式の変化に伴い、屏風や襖そのものが必要とされなくなり、屏風形式を用いて制作する画家も少なくなった。このようにわれわれの日常生活のなかから障屏画はきわめてまれなものになってしまったが、皇居新宮殿や寺院の内部の装飾画として、日本画家が共同して、あるいは単独で障屏画の筆をとる例がいまも絶えない。それは洋風建築にみられる壁画とも異なり、桃山障屏画の伝統を現代によみがえらせようとする画家の意欲が読み取れる。また、屏風や襖という生活に密着した建具の装飾画という性格を離れた、大画面としての障屏画独自の伝統は、これからもなお日本画家の活躍しうる領域として大きな期待がもてよう。[永井信一]
『武田恒夫著『原色日本の美術13 障屏画』(1967・小学館) ▽田中一松・土居次義・山根有三監修『障壁画全集』全10巻(1966・美術出版社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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