南谷村(読み)みなみだにむら

日本歴史地名大系 「南谷村」の解説

南谷村
みなみだにむら

[現在地名]五色町鮎原南谷あいはらみなみだに

鮎原下あいはらしも村の西にある。南西流してきた相原そうはら川は河上かわかみ天満宮(現河上神社)の南で都志つし川に合流する。鮎原盆地の中心で、西の鮎原西村の一部を合せ、天神てんじんとも通称される。正保国絵図に村名がみえ、高二五六石余。天保郷帳では高三四三石余。反別戸数取調書では反別二二町四反余、高四四一石余、うち一四一石余が蔵入地、三四二石余が西尾理右衛門ら一一名の給地、ほかに菅相かんしよう寺領二斗余があった。


南谷村
みなみたにむら

[現在地名]吉永町高田たかた

門出かどいで村の北にあり、東は播磨国行頭ゆくとう(現兵庫県赤穂郡上郡町)。蛇行する八塔寺はつとうじ川沿いの狭い谷間にあり、東西から山塊がせまる。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に神根こうね内として村名がみえ、物成六四石余、夫米三石余。寛永備前国絵図では高八三石余。「備前記」に枝村として柏原かしはらがみえる。「備陽記」では田畑八町七反余、家数三七・人数一七九、枝村に久保くぼいちなかいち・五大橋がある。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると直高一四八石で蔵入。


南谷村
みなみだにむら

[現在地名]羽合町南谷

赤池あかいけ村の東に位置し、東郷とうごう池の北岸にあたる。拝領高一一六石余。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高一二七石余、高一七二石余、うち畑高一六石余。免四ツ七分で橋津御蔵納。悪田加損米一〇石。池役銀三五匁・藪役銀二三匁。棟数二軒・役高四〇人。産土神は天満天神(現北野神社)。男六三・女五〇、禅門一。小早船一・かんこ船四を所持し、その運上銀八匁五分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一七五石余、竈数四八。文政五年(一八二二)東郷池にかけられた大敷網をめぐっての争論に加わっている。


南谷村
みなみだにむら

[現在地名]豊岡市栄町さかえまち

鎌田かまた村の東に位置し、鎌谷かまたに川の支流馬路まじ川が流れる。文禄五年(一五九六)鎌田久々井(比)分名寄帳(足立家文書)に「今市と申ハ南谷□□事也、当村ノ出村と申伝候也」とあり、南谷(今市)は「当村」(のちの下宮村)の枝村であった。江戸時代の領主変遷駄坂ださか村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「南谷」とみえ、高二一六石余。


南谷村
みなみだにむら

[現在地名]印南町南谷

黒岩くろいわ(二一四・五メートル)の北麓に位置し、北部を王子おうじ川が西流する。東は印南原いなんばら村、西は王子川下流北塩屋きたしおや(現御坊市)。慶長検地高目録によれば村高三六八石余、小物成一斗三升八合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑三一町二反余で高三六九石余、家数五三で内訳は大庄屋・庄屋各一、本役一三、半役二〇、無役一など、人数一九五、牛一八、馬六、鉄砲四、池一五ヵ所。


南谷村
みなみだにむら

[現在地名]邑久町下笠加しもかさか

下笠加村の東にある小村。もとは当地にあった南谷山長楽ちようらく寺にちなみ、南谷寺みなみだにてら村と称した。村名替えの時期は明らかでないが、元禄郷帳には南谷村とみえるから、一七世紀末までには変更したものと思われる。寛永備前国絵図・正保郷帳南谷寺村とみえ、高六八石余。「備陽記」では田畑三町八反余、家数五・人数二五、「古ハ南谷寺村ト唱」とある。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、直高七八石余で蔵入。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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