仏像を陽刻した小型の版木を印を捺(お)すように紙等に押して作った仏教版画。版木はふつう木製だが,文献によればインド,中国には,泥・銅製のものもある。多くは墨をつけて捺すが,朱を用いる例もあり,中世以後にはこれらに筆で彩色を加える例もある。紙に捺すことが一般的だが,経典等によれば7世紀のインド,中国には念誦しながら版木を水面,砂,空中の香煙等にくり返し捺すという,観想的な印仏の修法があった。日本では一般化しなかったが〈砂上印仏〉と題する詩が814年(弘仁5)撰の《凌雲集》にあり,その修法自体は伝わっていたらしい。
印仏は紙面に捺印するため印面の大きさに限度があり,大型のものは,紙を版木の上に置いて刷るいわゆる摺仏(すりぼとけ)の技法によって制作される。しかし,印面の長辺が10cm程度のものの場合は,捺して印仏とすることも,刷って摺仏とすることも,また印仏として捺しながらこれを滑らせて墨付きをよくすることも可能であり,遺品によっての両者の区別は必ずしも明瞭ではない。一般に印仏は小型で刷りあがりが悪く,摺仏は大型細密であるが,すでに平安時代の文献に大型の摺仏を〈印仏〉と呼んで両者を混同している例がある。
印仏の初見は文献上では7世紀末のインドに知られ,遺品としては中国唐代のものが敦煌等から発見されている。これは像高10cm前後で,小型のものは1紙に数十体をくり返し捺している。日本へは847年(承和14)に円仁が鍮石(とうせき)印仏を請来し(《僧円仁請来目録》),950年(天暦4)には仁和寺に両界曼荼羅印仏があったことが知られる(《仁和寺宝蔵御物実録帳》)。日本で制作された遺品では,京都浄瑠璃寺九体阿弥陀中尊像に納入されていたと伝える,阿弥陀座像を1版に100体あらわしたもの(12世紀初めころ)が古例だが,これも大きさから摺仏であろう。銘記のある最古のものは,1162年(応保2)に供養された毘沙門天立像(川端氏蔵)に納入されていた毘沙門天立像である。これは,1版1体の像を1紙に10体ずつあらわし,もと100枚計1000体を納入していた。印仏とされているが,摺仏とする説もある。平安時代末期以後は遺品,文献ともに多く,鎌倉時代以後さらに盛んに制作された。摺仏が中世以後大型化して画像の代用品として展開していったのに対して,印仏の特徴はその容易な量産性にある。平安時代後期から,多数の造寺造仏によってより多くの善根を積もうとする風潮が顕著となり,現世安穏,極楽往生等を目的として貴族が日課として決められた枚数を捺したり(日課印仏),仏像造立に際して,結縁者の名を裏に記した印仏を数千枚も仏像の胎内に納入することが広く行われた。
→胎内仏
執筆者:副島 弘道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…こうした護符を帯びると身に災害が及ばないという。仏教が伝わってくると,仏教徒のあいだでも同じようなことが行われたが,仏教では特に供養のため〈印仏〉を作ることが行われた。これは小さな仏像をいくつも1枚の紙に捺印するのである。…
…また絹の刺繡によるものを繡像(繡帳),綴織を織成像(当麻寺《当麻曼荼羅》)という。(7)仏教版画 中国宋代や,日本の平安後期には,信仰が庶民に広がり,安価に調達できる摺仏(すりぼとけ)(板仏の上からこする)や印仏(捺印する)が普及し,鎌倉時代に流行した。室町時代になり庶民信仰が発達すると,仏画を描く代りに仏教版画が多量に制作され,それに彩色を加えるなど,新時代の要請に応ずることになった。…
…印刷法は大別して3通りである。(1)印仏や印鑑のように紙に版面を下にして版を押捺する方法で,これは小型の版に限られる。(2)上向きに置かれた版に紙を置き,紙の背面から手のひらやへらによって(初期的な方法),次いで,馬の毛のブラシやタンポンやバレンのようなものによって捺摺する方法。…
※「印仏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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