原爆被爆者(読み)げんばくひばくしゃ

改訂新版 世界大百科事典 「原爆被爆者」の意味・わかりやすい解説

原爆被爆者 (げんばくひばくしゃ)

原子爆弾被爆によって人体に障害を受けた人。とくに1945年8月6日広島市に,その3日後の9日長崎市に投下された原子爆弾によって,身体的被害を受けた人。略して被爆者ということが多く,hibakushaは国際的用語になっている。なお,似た言葉に原爆被害者があるが,これは原爆被爆者本人ばかりではなく,配偶者,親,子など近親者を原爆によって殺された遺族(原爆未亡人,原爆孤児,原爆孤老)をも含む広い範囲の被害者を指している。また,被爆者の被爆後の子どもは被爆2世と呼ばれている。

 被爆直後には,強烈な熱線による火傷,爆風による外傷,放射線による急性原子爆弾症によって死亡したり重い症状に苦しむ被爆者がおびただしく,その応急的な救護と医療が行われたが,地域社会が崩壊し,行政組織も壊滅状態になり,医療要員の動員も困難であったため,死亡者が続出した。救護や医療に従事したため残留放射能をあびて被爆者になったものも多かった。45年12月には,広島市,長崎市にそれぞれ〈戦災者同盟〉が結成され,食糧衣料,住宅などの供与要求する運動が48年ごろまで続けられたが,原爆被害を訴えることが占領軍によって禁じられていたため,戦災市民一般の要求にとどまった。48年8月10日,広島市で〈広島県下傷痍婦人協力大会〉が開かれ,医療対策や経済的・精神的安定のための対策などの要求が決議された。50年には,広島にピース・センターが設立され,原爆孤児をアメリカ人の〈精神養子〉に斡旋する活動,〈原爆乙女の会〉を組織し援助する活動,原爆未亡人に授産事業を行う婦人ホームの経営などが展開された。また,ケロイドがある原爆乙女に国内やアメリカの病院で治療を受けるよう援助する運動や,国内にも原爆孤児の精神親を求める運動なども行われた。

 講和条約が締結された1951年には〈広島原爆傷害者更生会〉,翌52年には広島に〈原爆犠牲者の会〉,53年には長崎に〈原爆乙女の会〉と,急速に被爆者の自主的運動団体の組織化が進み,医療・生活対策要求運動が開始された。54年には,弁護士の支援によって兵庫県の被爆者を中心とする〈原爆損害求償同盟〉が結成され,原爆訴訟が提起された。また,広島市,長崎市の臨床医は被爆者の慢性原爆症治療対策を推進するために関係者に働きかけ,53年にそれぞれ市原爆障害者治療対策協議会が結成された。54年,ビキニ水爆実験を契機に,放射能を含む〈死の灰〉の危険性が広く認識され,原水爆禁止運動が発展したため,全国各地の原爆被爆者はそれぞれの地域で組織をつくり,56年〈日本原水爆被害者団体協議会〉(日本被団協)に結集した。日本被団協は,原水爆被害者援護法,原水爆被害者健康管理制度の確立などを要求して運動を展開した。

 1957年〈原子爆弾被爆者の医療等に関する法律〉(原爆医療法)が制定され,国費によって被爆者の健康診断と原爆症の治療が行われるようになった。しかし,治療対象の認定枠が極めて狭く,また生活保障や被害補償はまったく行われないので,日本被団協は〈原爆医療法〉の改正,さらに〈被爆者援護法〉の制定を要求する運動を続けた。その結果,60年には〈原爆医療法〉の改正が行われたので,以後日本被団協は〈国家補償にもとづく援護法〉要求運動を推進している。68年には〈原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律〉(被爆者特別措置法)が制定され,特別手当,健康管理手当,介護手当,医療手当が支給されることになり,その後も各手当の増額や葬祭料,保健手当,家族介護手当の新設など諸給付の拡充が行われている。しかし,遺族年金など原爆被害者が当初から要求していた国家補償がまだ実現していない。

 被爆者には,〈援護法〉要求運動とともに原水爆禁止運動に参加しているものが多い。しかしその反面,悲惨な体験は思い出すのもつらいと自閉的になったり,子や孫の世代まで結婚,就職などの際に差別されないかと不安を感じているものも少なくない。このような自閉的・消極的な態度をとっていた被爆者も,周囲の人びとの理解と支援によって体験を語り運動に参加するようになる例が増加している。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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