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現代の現象学的社会学の出発点に位置する社会学者、哲学者。最晩年の数年を除き銀行家としても生活し、実務と研究を両立させた。ウィーンに生まれ、ニューヨークで没す。ウィーン大学でハンス・ケルゼンHans Kelsen(1881―1973)、ルードウィッヒ・フォン・ミーゼス、オットマール・シュパンらに就き、法律学と社会諸科学を学ぶ。大学時代、マックス・ウェーバーとフッサールの業績に深い関心を抱く。在世時に出版された唯一の著作『社会的世界の意味構成』(1932)によってフッサールとの交流が生まれ、両者の交わりはフッサールの死に至るまで続く。ヒトラーの進出に伴い、1938年パリに移住、翌1939年アメリカに渡り、以後アメリカ在住。ニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの大学院で教職につき、のちに教授。国際現象学会の設立に参加、『哲学と現象学的リサーチ』の編集スタッフにも加わる。
シュッツの業績は、今日、メタ社会学、科学方法論、個別具体的な主題の社会学という三つの視点から検討されることもあるが、彼のパースペクティブ(視野)とアプローチにとくに大きな影響を与えているのはフッサールとM・ウェーバーであり、また、彼の業績にはベルクソンの強い影響、シェラー、W・ジェームズ、デューイ、クーリー、ミード、トマス、さらにサムナーそのほかの人々の影響がみられる。シュッツ独自の視点とアプローチは、日常生活の世界、常識の生活、常識によってたつ現実、知識、多元的現実、生活誌の状況、他者、レリバンス(有意性と訳されることもある)、サインやシンボル、動機と行為などに関する見解に、また、異邦人や帰郷者、ドン・キホーテや、モーツァルトの音楽などについての考察に明瞭(めいりょう)に認められる。前出の著作のほかに、死後、編集刊行された『レリバンスの問題についての考察』(1970)、3巻からなる『論文集』(1962~1966)などがある。
[山岸 健]
『アルフレッド・シュッツ著、森川眞規雄・浜日出夫訳『現象学的社会学』(1980・紀伊國屋書店)』▽『アルフレッド・シュッツ著、桜井厚訳『現象学的社会学の応用』(1980/新装版・1997・御茶の水書房)』▽『佐藤嘉一訳『社会的世界の意味構成 ヴェーバー社会学の現象学的分析』(1982・木鐸社)』▽『M・ナタンソン編、渡部光他訳『アルフレッド・シュッツ著作集』全4巻(1983~1997・マルジュ社)』
17世紀ドイツを代表する作曲家で、シャイン、シャイトとともに「三大S」とよばれた。10月14日、中部ドイツのゲーラ近郊ケストリッツに生まれる。13歳でカッセル宮廷礼拝堂少年聖歌隊隊員となる。マールブルク大学で法律を学ぶが、1609年ヘッセン伯モーリッツの奨学金でベネチアに留学、13年までG・ガブリエリに師事し、ベネチア楽派の色彩的な複合唱様式を身につける。帰国後、カッセル宮廷第二オルガン奏者を経て、17年からドレスデンのザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の宮廷楽長となる。19年、自らの結婚の記念として出版した『ダビデ詩篇(しへん)』(作品2)は、ガブリエリに学んだ複合唱様式を示している。27年ドイツ最初のオペラ『ダフネ』を作曲・上演したシュッツは、翌28年から約1年間、ふたたびベネチアを訪れ、モンテベルディの強い影響を受ける。『シンフォニエ・サクレ第1部』(作品6、1629)などは、三十年戦争で縮小を余儀なくされた宮廷楽団の実情を反映し、小編成のモノディ様式を採用して効果をあげている。三十年戦争中はデンマーク宮廷にたびたび招かれたが、終戦の48年には伝統的なポリフォニー様式の名作『ガイストリッヒェ・コアムジーク』(作品11)を出版し、円熟期に入る。晩年は『ルカ』『ヨハネ』『マタイ』の三大受難曲をはじめ、『キリスト降誕の物語』『ドイツ語マニフィカート』と傑作を連ね、72年11月6日ドレスデンで、87歳の高齢で世を去った。シュッツは、バッハ以前最大のプロテスタント教会音楽家として、ドイツ語歌詞と音楽の融合に多大の功績を残している。
[樋口隆一]
『R・テラール著、店村新次・浅尾己巳子訳『シュッツ』(1981・音楽之友社)』
ドイツの作曲家。14歳の年,ヘッセンの領主モーリツ伯に楽才を見いだされ,カッセル宮廷礼拝堂の聖歌隊員となり,宮廷直属の高等学校で学ぶ。1609年,モーリツ伯より奨学金を与えられてベネチアへ留学し,巨匠G.ガブリエリのもとでイタリア・マドリガルの描写の手法や,ベネチア楽派の壮麗な複合唱様式を学んだ。12年帰国後カッセルの宮廷で第2オルガニストを務めたのち,17年ザクセン選帝侯に招かれてドレスデンの宮廷楽長に就任,以後55年間終生この地位にとどまって三十年戦争(1618-48)の苦難を音楽によって救った。
残存する約500曲の作品は,大部分が宗教的声楽曲である。シュッツの創作第1期は,ベネチア留学の成果を反映した作品群で,豊麗な複合唱様式をドイツ・プロテスタント教会音楽に定着させた最大の規模の《ダビデの詩篇歌集》(1619),ドイツ・オラトリオ最初の名作《キリスト復活の物語》(1623)やラテン語による4声部のモテット集《カンティオネス・サクレ》(1625)がこれに属する。28年再度のイタリア訪問で強い感銘を受けたモンテベルディの〈劇的な朗唱様式と激昂様式stileconcitato〉の影響から生まれた第2期は,小編成の器楽アンサンブルと独唱または重唱による凝縮された密度の高い表現力をもつ宗教曲集が中心となり,ドイツ教会カンタータ独自の形態の基盤ともなった《シンフォニエ・サクレ》Ⅰ,Ⅱ(1629,47)や《クライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ》Ⅰ,Ⅱ(1636,39)が重要である。三十年戦争終結の1648年刊行の古典的名作《ガイストリッヒェ・コーア・ムジークGeistliche Chor-Musik》以後シュッツは第3期の作風に入る。《ルカ受難曲》(1653ころ),《ヨハネ受難曲》(1665ころ),《マタイ受難曲》(1666),《キリスト生誕の物語》(1664),死の前年に再び複合唱様式で書かれた《ドイツ語によるマニフィカト》(1671)などが代表作である。シュッツは当時のドイツではほとんど未知であったイタリアのさまざまな革新と後期フランドル楽派の対位法技巧,ドイツ独自の宗教音楽の伝統を総合し,J.S.バッハに先駆けて,その後のドイツ音楽の基底となる独創的な表現手段を獲得した。シュッツが〈新しいドイツ音楽の父〉とたたえられるのはそのためである。
執筆者:正木 光江
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…古くは四つの福音書の記述を総合したテキスト〈スンマ・パッシオニスsumma passionis〉に作曲することも行われた。その特殊な形態が,イエスの十字架上の言葉を四つの福音書から集め,それをつなぐ叙事的語りを加えた〈十字架上の七つの言葉〉(シュッツとハイドンの作品がある)である。
【歴史】
歴史的に見ると,受難曲は〈聖週間〉に行われた聖書の受難のくだりの朗読にさかのぼる。…
… 17世紀から18世紀中葉にかけてのバロック時代は,ルネサンスの後を受け,さらに外国の音楽の諸様式に敏感に反応しながら,ドイツ音楽がオペラを除くほとんどすべての分野で開花する時代である。とくに北方のプロテスタント地域では,ルター派のコラールを取り入れた教会カンタータや受難曲が,シュッツからJ.S.バッハ(大バッハ)に至る教会音楽の流れのなかで徐々に創造され,真にドイツ語とドイツ精神に根ざしたドイツ音楽を形成する。こうしたドイツ的なものは宗教的声楽曲のみならず,オルガン音楽,リュート音楽,チェンバロ音楽,バイオリン音楽,器楽組曲,合奏協奏曲などの器楽の上にも顕著に現れる。…
※「シュッツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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