日本大百科全書(ニッポニカ) 「メタスタージオ」の意味・わかりやすい解説
メタスタージオ
めたすたーじお
Pietro Metastasio
(1698―1782)
イタリアの詩人、劇作家。1月3日、ローマの商人の家庭に生まれる。10歳のころに、当時アルカディア学会員であったグラビーナGian Vincenzo Gravina(1664―1718)に才能をみいだされ、その厳格な指導のもとに、ギリシア、ラテンおよびルネサンスの古典文学と哲学とを修めて、姓も本来のトラパッシTrapassiからギリシア風のメタスタージオに改めた。1714年、聖職につく。17年、早くも処女詩集を出版。翌18年、アルカディア学会入会。19年、ナポリへ移住し、上流社会の厚遇を得て、同時に演劇界や音楽界との交流も深めていく。23年に、当時一世を風靡(ふうび)した歌姫マリアンナ・ブルガレッリに捧(ささ)げて、メロドラマ(音楽劇、今日のオペラ)『見棄(みす)てられたディドーネ』を執筆。その初演は翌年にブルガレッリを主役として行われたが、大成功を博し、メタスタージオの名声はただちにイタリア半島内外に広まった。その後も『ウーティカのカトー』(1727)、『セミラミス』(1729)など、優れた脚本を書き、当時は音楽に比重の置かれていたメロドラマを、文学的に再建させた。しかし30年に、旧来の後見人であった伯爵夫人マリアンナ・ピニャテッリの仲介によってウィーンの宮廷へ招かれると、以後は82年4月12日に没するまで、絶対君主制を誇る異国の都の宮廷詩人として、カール6世、マリア・テレジア、ヨーゼフ2世ら、歴代の皇帝に仕えた。
ウィーンでの最初の10年間に、驚異的なまでに数多くのメロドラマを書き上げたが、代表作としては、『デメトリウス』(1731)、『オリンピア競技会』(1733)、『ティトゥス帝の慈悲』(1734)などがあげられる。しかし、この精力的な創作の時期が過ぎると、あたかも詩心が枯渇したかのように急速に寡作となり、晩年になると自らの詩作を振り返りつつ、それを理論化する詩論の執筆に専念した。
[鷲平京子]