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「古今亭志ん生」の意味・読み・例文・類語
ここんてい‐しんしょう〔‐シンシヤウ〕【古今亭志ん生】
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ここんてい‐しんしょう【古今亭志ん生】
- 落語家。
- [ 一 ] ( 初代 ) 通称清吉。初代三遊亭円生に師事。人情噺「お富与三郎」「小猿七之助」が得意芸。文化六~安政三年(一八〇九‐五六)
- [ 二 ] ( 五代 ) 本名美濃部孝蔵。名人円喬に入門。のち、小円朝、四代目志ん生に師事。一時は講談に移る。朝太から一六回改名し、馬生から五代目志ん生を襲名。得意芸は「火焔太鼓」「文七元結」など。明治二三~昭和四八年(一八九〇‐一九七三)
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古今亭 志ん生(5代目)
ココンテイ シンショウ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 美濃部 孝蔵
- 別名
- 前名=三遊亭 朝太,三遊亭 円菊,金原亭 馬太郎,吉原 朝馬,金原亭 武生,金原亭 馬きん,古今亭 志ん馬,小金井 芦風,古今亭 馬生,古今亭 ぎん馬,柳家 東三楼,柳家 甚語楼,隅田川 馬石,金原亭 馬生(7代目)
- 生年月日
- 明治23年 6月5日
- 出生地
- 東京市 神田区亀住町(東京都 千代田区)
- 学歴
- 下谷尋常小〔明治33年〕中退
- 経歴
- 生家はかつて幕府の直参旗本で、槍の指南番をしていたという。明治34年尋常小学校を中退して奉公に出るが、いずれも長続きせず。朝鮮・京城(ソウル)の印刷会社に勤務するが、それも途中で辞め帰京した。落語家を志し、40年橘家円喬に入門。43年2代目三遊亭小円朝門下で朝太と名乗り、大正5年三遊亭円菊で二ツ目。7年6代目金原亭馬生の門下に移って金原亭馬太郎に改名し、8年吉原朝馬、9年金原亭武生を経て、10年金原亭馬きんの名で真打ちに昇進。12年古今亭志ん馬に改名するが、13年3代目小金井芦州に入門し、小金井芦風の名で講釈師となった。15年落語に復帰して古今亭馬生を名乗るもすぐに古今亭ぎん馬に改名し、さらに2年柳家三語楼の一門に入って柳家東三楼となり、すぐ柳家甚語楼に改めた。その後も7年隅田川馬石、8年古今亭志ん馬(2度目)と名を変え、9年には7代目金原亭馬生を、14年5代目古今亭志ん生を襲名。ここまでの間、改名は16度に及ぶ。20年酒が飲めると聞いて6代目三遊亭円生と演芸慰問団に参加し、満州の大連で敗戦を迎えた。22年帰国してからは爆発的に人気が出、寄席のみならずラジオにも積極的に出演し、28年ラジオ東京、29年ニッポン放送の専属となる。31年「お直し」で芸術祭賞を受賞。32年8代目桂文楽の後をうけて落語協会会長に就任し、38年まで務めた。天然の可笑しみを湛えた人柄と、軽妙にして洒脱、飄逸にして融通無碍な語り口は至芸といわれ、8代目桂文楽、6代目円生らと並び“昭和の名人”と称された。“なめくじ長屋”“死神”の異名をとるほどの極貧生活や大好きな酒にまつわるエピソードなど、落語さながらの逸話も多い。36年に口演中に脳出血で倒れ、43年以降は高座に出なかった。この間、39年紫綬褒章、42年勲四等瑞宝章を受章。得意演目に「火焔太鼓」「黄金餅」「あくび指南」「らくだ」「お直し」「塩原多助」「品川心中」「強情灸」「粗忽長屋」「唐茄子屋政談」などがある。弟子に長男の10代目金原亭馬生、二男の3代目古今亭志ん朝の他、古今亭志ん好、2代目古今亭甚語楼、初代金原亭馬の助、2代目古今亭円菊らがいる。自伝「なめくじ艦隊」「びんぼう自慢」がある。
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和39年〕,勲四等瑞宝章〔昭和42年〕 芸術祭賞〔昭和31年〕
- 没年月日
- 昭和48年 9月21日 (1973年)
- 家族
- 長男=金原亭 馬生(10代目),二男=古今亭 志ん朝(2代目),孫=池波 志乃(女優)
- 伝記
- 志ん生の昭和志ん生の食卓志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔志ん生讃江名人―志ん生、そして志ん朝志ん生的、文楽的志ん生一代〈下〉志ん生一代〈上〉三人噺―志ん生・馬生・志ん朝円生と志ん生おしまいの噺―落語を生きた志ん生一家の物語志ん生を撮った!―元祖寄席カメラマン秘話名人―志ん生、そして志ん朝志ん生最後の弟子 ヨイショ志ん駒一代三人噺―志ん生・馬生・志ん朝江戸前で笑いたい―志ん生からビートたけしへ落語家円菊 背中の志ん生―師匠と歩いた二十年志ん生の忘れもの志ん生一代〈下〉志ん生一代〈上〉これが志ん生だ!〈第2巻〉疝気の虫・芸談―自らが語る一代記これが志ん生だ!〈第5巻〉―火焔太鼓・芸談これが志ん生だ!〈第1巻〉 茶汲み・芸談志ん生!―落語ワンダーランドなめくじ艦隊―志ん生半生記志ん生のいる風景 保田 武宏 著美濃部 美津子 著岡本 和明 著矢野 誠一 編小林 信彦 著平岡 正明 著結城 昌治 著結城 昌治 著美濃部 美津子 著井上 ひさし 著美濃部 美津子 著金子 桂三 著小林 信彦 著古今亭 志ん駒 著美濃部 美津子 著高田 文雄 編古今亭 円菊 著小島 貞二 著結城 昌治 著結城 昌治 著小島 貞二 聞き手小島 貞二 解説読売新聞社 編古今亭 志ん生 著矢野 誠一 著(発行元 アスキー・メディアワークス,角川グループパブリッシング〔発売〕アスペクトアスペクト河出書房新社文芸春秋講談社学陽書房学陽書房文芸春秋集英社アスペクトうなぎ書房朝日新聞社うなぎ書房扶桑社中央公論新社うなぎ書房うなぎ書房中央公論社中央公論社三一書房三一書房三一書房読売新聞社筑摩書房文芸春秋 ’09’08’07’07’07’06’05’05’05’05’05’04’03’02’02’01’01’99’95’95’95’94’94’93’91’87発行)
古今亭 志ん生(4代目)
ココンテイ シンショウ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 鶴本 勝太郎
- 別名
- 初名=古今亭 今之助
- 生年月日
- 明治10年 4月4日
- 経歴
- 13、4歳で落語の世界に入り、明治37年ごろ雷門小助六。大正元年金原亭馬生を経て、13年4代目志ん生を襲名。「おせつ徳三郎」などを好演した。明治末から大正時代にかけて東京の落語界の名物男として名を馳せ、吉井勇の久保田万太郎の作品のモデルにもなった。
- 没年月日
- 大正15年 1月29日 (1926年)
- 伝記
- 落語は物語を捨てられるか 矢野 誠一 著(発行元 新しい芸能研究室 ’91発行)
古今亭 志ん生(2代目)
ココンテイ シンショウ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 福原 常吉
- 生年月日
- 天保3年 9月
- 経歴
- 初代志ん生の門下で、寿六・今輔を経て2代目襲名。人情咄・落し咄を得意とし、弟子には2代目古今亭今輔、五明樓玉輔などを輩出した。
- 没年月日
- 明治22年 11月24日 (1889年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
古今亭志ん生
ここんていしんしょう
落語家。
[関山和夫]
(1809―56)俗称清吉。初代三遊亭円生(えんしょう)門に入って円太。一時、江戸を離れたが、帰ってから古今亭新生と名のり、真生、志ん生と改名。『お富与三郎』『小猿(こざる)七之助』『九州吹戻(ふきもど)し』など人情咄(ばなし)を口演。
[関山和夫]
(1832―89)本名福原常蔵。初代の門人。寿六(じゅろく)から今輔(いますけ)を経て2代目を襲名。巨体のため「お相撲(すもう)志ん生」といわれた。
[関山和夫]
(1863―1918)本名和田岩松。昔家今松(むかしやいままつ)から雷門(かみなりもん)助六となり、1911年(明治44)志ん生となる。「しゃも」のあだ名で人気があった。
[関山和夫]
(1877―1926)本名鶴本(つるもと)勝太郎。2代目今輔門で今の助。3代志ん生門となり、昔家今松、雷門小助六、古今亭志ん馬、金原亭馬生(きんげんていばしょう)を経て4代目を継ぐ。『三軒長屋』『あくび指南』など江戸前の話芸でファンを喜ばせた。
[関山和夫]
(1890―1973)本名美濃部(みのべ)孝蔵。2代目三遊亭小円朝に入門して朝太。円菊、馬太郎、武生、馬きん、志ん馬と改名し、講釈師で小金井蘆風(ろふう)、落語に戻ってまた幾度も改名し、7代馬生を経て1939年(昭和14)志ん生を襲名。『火焔(かえん)太鼓』『お直(なお)し』『三枚起請(きしょう)』『唐茄子屋(とうなすや)政談』など演目も豊富で、独自の天衣無縫ともいうべき芸風により、8代目桂文楽とは対照的な昭和落語の一方の雄であった。残された録音も多く、青壮年時代の貧乏暮らしと酒を愛した生涯は『なめくじ艦隊』『びんぼう自慢』などの自伝に詳しい。長男が10代目金原亭馬生(1928―82)、次男が古今亭志ん朝(しんちょう)(1938―2001)。
[関山和夫]
『『五代目古今亭志ん生全集』全8巻(1977~84・弘文出版)』▽『『これが志ん生だ!』全11巻(1994~95・三一書房)』
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古今亭 志ん生(5代目)
ココンテイ シンショウ
大正・昭和期の落語家
- 生年
- 明治23(1890)年6月28日
- 没年
- 昭和48(1973)年9月21日
- 出生地
- 東京市神田区亀住町(現・東京都千代田区)
- 本名
- 美濃部 孝蔵
- 別名
- 前名=金原亭 馬生(7代目)
- 学歴〔年〕
- 下谷尋常小〔明治33年〕中退
- 主な受賞名〔年〕
- 芸術祭賞〔昭和31年〕,紫綬褒章〔昭和39年〕,勲四等瑞宝章〔昭和42年〕
- 経歴
- 明治40年橘家円喬に入門、43年2代目三遊亭小円朝門下で朝太と名のり、大正5年頃三遊亭円菊で二ツ目に昇進、馬生門に移って13年金原亭馬きんで真打ちに昇進。以降講釈師・3代目芦州門下や柳家三語楼門下に入り、改名は15回にも及ぶ。昭和9年7代目金原亭馬生を、14年5代目志ん生を襲名。極貧生活を送りながらも、鋭い美意識を養い、洒脱、軽妙な独得の語り口をつくり出す。20年6代目三遊亭円生と共に中国へ慰問、22年帰国後は人気が出て、ラジオ東京やニッポン放送の専属となる。31年「お直し」で芸術祭賞を受賞。32〜38年まで落語協会会長。36年脳出血で倒れ、43年以降高座に出なかった。演目に「五銭の女郎買」「火焰太鼓」「らくだ」「塩原多助」などがあり、多くのレコードや「志ん生ばなし」(立風書房)「五代目古今亭志ん生全集」(全5巻 弘文出版)に収録されている。自伝「なめくじ艦隊」「びんぼう自慢」がある。
古今亭 志ん生(4代目)
ココンテイ シンショウ
明治・大正期の落語家
- 生年
- 明治10(1877)年4月4日
- 没年
- 大正15(1926)年1月29日
- 本名
- 鶴本 勝太郎
- 別名
- 初名=古今亭 今之助
- 経歴
- 13、4歳で落語の世界に入り、明治37年ごろ雷門小助六。大正元年金原亭馬生を経て、13年四代目志ん生を襲名。「おせつ徳三郎」などを好演した。明治末から大正時代にかけて東京の落語界の名物男として名を馳せ、吉井勇の久保田万太郎の作品のモデルにもなった。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
古今亭志ん生 (ここんていしんしょう)
落語家。現在まで5代をかぞえる。(1)初代(1809-56・文化6-安政3) 通称清吉。初代三遊亭円生門下。同門の円蔵が2代目を襲名したので放浪生活ののち別派を立て,《九州吹き戻し》《お富与三郎》など人情噺(ばなし)の名人となる。(2)2代(1834-89・天保5-明治22) 本名福原常吉。初代門下。大兵肥満で〈お角力(すもう)〉と異名をとり,人情噺,滑稽噺とも巧妙だった。(3)3代(1862-1918・文久2-大正7) 本名和田岩松。〈しゃも〉とあだ名され,愛嬌ある高座で人気があった。(4)4代(1877-1926・明治10-昭和1) 本名鶴本勝太郎。渋い江戸前の芸の持主で,初代小せん,3代馬楽とともに明治末から大正にかけて東京落語界の名物男として,吉井勇や久保田万太郎の作品のモデルになった。(5)5代(1890-1973・明治23-昭和48) 本名美濃部孝蔵。昭和の落語を代表する一人。橘家円喬,初代小円朝,4代目志ん生に師事。講談界に転じた時機もある。16回の改名が物語るように,そこには芸と生活の苦難の跡があった。生活の匂いを基調とした円転滑脱の妙味ある芸を持ち,《火焰(かえん)太鼓》《お直し》などの芸は絶品だった。
執筆者:興津 要
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
百科事典マイペディア
「古今亭志ん生」の意味・わかりやすい解説
古今亭志ん生【ここんていしんしょう】
落語家。初代〔1809-1856〕は幕末の人情噺(ばなし)の名手。《お富与三郎》《小猿七之助》などを得意とした。4代〔1877-1926〕も明治〜大正に渋い芸をうたわれた。5代〔1890-1973〕は本名美濃部孝蔵。名人橘家円喬に入門して後,小円朝,4代志ん生,三語楼などにつき,また一時は講談師にもなったり,改名も16回に及んだが,この間に奔放自在の芸をみがき上げた。得意は《火焔(かえん)太鼓》《文七元結》など。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
古今亭志ん生(5代) ここんてい-しんしょう
1890-1973 大正-昭和時代の落語家。
明治23年6月5日生まれ。2代三遊亭小円朝,4代橘家円喬(たちばなや-えんきょう),初代柳家小さんらにまなぶ。改名16回をへて,昭和14年5代志ん生を襲名。天衣無縫といわれる芸で,戦後は8代桂文楽とならび称される。「火焔(かえん)太鼓」「三枚起請(きしょう)」などを得意とした。昭和48年9月21日死去。83歳。東京出身。本名は美濃部(みのべ)孝蔵。
【格言など】「今に見てろッ」てえ気持ちがあるから(中略)ですからこんなドン底の生活の中だって,メソメソしたところはない。家ン中ァ案外落ちついたものでしたよ(「私をささえた一言」)
古今亭志ん生(4代) ここんてい-しんしょう
1877-1926 明治-大正時代の落語家。
明治10年4月4日生まれ。2代古今亭今輔(いますけ)門から兄弟子の5代雷門(かみなりもん)助六(のちの3代志ん生)の門にはいる。雷門小助六,6代金原亭(きんげんてい)馬生などをへて,大正13年4代を襲名。江戸前の粋な芸で,「おせつ徳三郎」「三軒長屋」「あくび指南」などを得意とした。大正15年1月29日死去。50歳。本名は鶴本勝太郎。
古今亭志ん生(3代) ここんてい-しんしょう
1863-1918 明治-大正時代の落語家。
文久3年9月5日生まれ。2代古今亭今輔(いますけ)の門にはいり,むかし家今松から5代雷門(かみなりもん)助六をへて,明治43年3代を襲名。市川団蔵の声色(こわいろ)が得意で人気をあつめる。風貌などから「しゃも」のあだ名があった。大正7年5月10日死去。56歳。本名は小瀬(のち和田)岩松。
古今亭志ん生(初代) ここんてい-しんしょう
1809-1857* 江戸時代後期の落語家。
文化6年生まれ。初代三遊亭円生に入門して円太と名のる。のち別派をたて古今亭新生,真生,志ん生と改名。目や足の障害を克服し,名人といわれる芸域に達した。得意は「お富与三郎」「九州吹戻し」などの人情噺(ばなし)。安政3年12月26日死去。48歳。名は清吉。俳名は寿耕。
古今亭志ん生(2代) ここんてい-しんしょう
1832-1889 幕末-明治時代の落語家。
天保(てんぽう)3年9月生まれ。初代志ん生に入門し,寿六,今輔(いますけ)をへて,慶応のころ2代を襲名。力士をこころざしたこともあって相撲の噺(はなし)を得意とし,「お相撲志ん生」といわれた。明治22年11月24日死去。58歳。本名は福原常蔵。
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古今亭志ん生(5世)
ここんていしんしょう[ごせい]
[生]1890.6.28. 東京
[没]1973.9.21. 東京
落語家。本名美濃部孝蔵。2世三遊亭小円朝に入門,改名 16回目で志ん生となる。『火焔太鼓』『文七元結』などで,昭和期を代表する名人といわれた。長男が 10世金原亭馬生 (1928.1.5~82.9.13) で,次男が3世古今亭志ん朝 (1938.3.10~2001.10.1) 。
古今亭志ん生(2世)
ここんていしんしょう[にせい]
[生]天保3(1832)
[没]1889.11.24.
落語家。本名福原常蔵。1世古今亭志ん生門人。師の没後,古今亭今輔を経て,慶応年間末期に2世を継承。肥満大力であったため「お相撲志ん生」と呼ばれ,師ゆずりの『お富与三郎』などを得意とした。
古今亭志ん生(3世)
ここんていしんしょう[さんせい]
[生]文久3(1863).9.5.
[没]1918.5.10.
落語家。本名和田岩松。2世古今亭今輔門下。雷門助六を経て,1910年3世志ん生となる。軍鶏 (しゃも) の志ん生と称された。
古今亭志ん生(1世)
ここんていしんしょう[いっせい]
[生]文化6(1809)
[没]安政3(1856)
落語家。通称清吉。人情噺『お富与三郎』『小猿七之助』などを得意とした。弟子は少なかったが,他門の後進にも大きな影響を与えた。
古今亭志ん生(4世)
ここんていしんしょう[よんせい]
[生]1877
[没]1926
落語家。本名鶴本勝太郎。2世志ん生門下。雷門小助六,金原亭馬生を経て,1924年4世志ん生を襲名。渋い芸風で知られる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
古今亭 志ん生(5代目) (ここんてい しんしょう)
生年月日:1890年6月28日
大正時代;昭和時代の落語家
1973年没
古今亭 志ん生(4代目) (ここんてい しんしょう)
生年月日:1877年4月4日
明治時代;大正時代の落語家
1926年没
古今亭 志ん生(3代目) (ここんてい しんしょう)
生年月日:1863年9月5日
明治時代;大正時代の落語家
1918年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の古今亭志ん生の言及
【船徳】より
…落語。初代古今亭志ん生作の人情噺《お初徳兵衛浮名桟橋(うきなのさんばし)》の発端部分の落語化。若旦那徳さんが,道楽の末に勘当され,船宿で居候(いそうろう)をするうちに船頭になる。…
【落語】より
…一方,可楽よりもやや先輩として活躍したのは,〈身振り声色(こわいろ)芝居掛り鳴り物入り〉元祖と称した初代[三遊亭円生]だった。円生門下からは,〈続き物〉の祖初代金原亭馬生(きんげんていばしよう)(?‐1838),人情噺の名手初代古今亭(ここんてい)志ん生,おなじく人情噺をよくした2代円生などが輩出した。 上方落語界は,彦八の名跡が4代で絶えて以後は低調だったが,前記のように会咄,座敷咄が流行し,1792年(寛政4),京都から浮世咄の松田弥助が下るにおよんで復興の機運を迎え,初代[桂文治](1773‐1815)が寄席興行を開催し,芝居がかりの落語を口演したころから隆盛に向かった。…
※「古今亭志ん生」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」