土木工学、土木行政のみならず、明治以後の日本の工学教育と技術体系の近代化の基礎づくりにおける最大の功労者。江戸の姫路藩中屋敷で生まれる。明治初期、開成所、大学南校に学び、1875年(明治8)文部省の最初の留学生としてフランスへ赴く。エコール・サントラル、パリ大学理学部を卒業して、1880年帰国、内務省土木局および東京大学理学部に勤め、河川工事の監督、河川工学の指導に尽力。1886年、帝国大学工科大学初代学長。工学教育の基礎を確立。1890年内務省土木局長、1894年初代土木技監。近代的土木行政を確立。1898年逓信(ていしん)次官、1903年(明治36)鉄道作業局長官、同年京釜(けいふ)鉄道株式会社総裁となり、京城(現、ソウル)―釜山(ふざん/プサン)間の鉄道を日露戦争のさなかの1904年10月末に開通させ、旅順攻略の契機をつくる。1906年統監府鉄道管理局長官、帝国学士院会員。1914年(大正3)土木学会創立に際し初代会長に推される。1917年理化学研究所長。1920年学術研究会議初代会長。1924年枢密顧問官。1929年(昭和4)万国工業会会長となり万国工業会議を初めて東京で開く。1932年日仏会館理事長。
[高橋 裕]
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
明治・大正期の土木工学者,男爵 東京帝大名誉教授;枢密顧問官;貴院議員(勅選)。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
明治・大正期を代表する土木技術者。江戸の姫路藩中屋敷で生まれ,大学南校・東京開成学校に学び,さらにフランスに留学してエコール・サントラルおよびパリ大学理学部を卒業した。1880年に帰国後内務省土木局に採用され,信濃川,阿賀野川などの河川改修の直轄工事を監督した。86年に帝国大学工科大学教授兼初代の工科大学長となり,その後内務省土木局長・土木技監を兼務するが,98年にすべての職を辞任した。1903年に京釜鉄道株式会社総裁に就任,14年には土木学会が創立されるとその初代会長となり,さらに枢密顧問官,万国工業会長の要職を歴任した。彼の業績は土木工学のみならず工学一般に及ぶが,とくに初代工科大学長として広い視野に立ち,水準の高い工学教育機関を構想し,それを実現した功績は特筆に値する。
執筆者:佐藤 馨一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
… 日本からも西園寺公望,大山巌,伏見宮,閑院宮,中江兆民などフランスに留学する者が多く出,山本芳翠,黒田清輝,久米桂一郎らが画家のパリ留学の先鞭をつけた。1875年には古市公威(きみたけ)が留学,80年博士号(工学および理学)を取って帰国した。明治10年代からは洋風宮廷建設のため家具職,大工,庭師など,多くの職人が技術習得のためフランスに渡り,ブドウ栽培,ブドウ酒醸造,革細工,製本術,航空術,潜水艦などを学びに行く者も現れた。…
※「古市公威」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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