古里村
ふるさとむら
[現在地名]大宮町永会 古里
藤村の北、山間を北流する藤川の中流域にある。河北に本郷、河南上流に枝郷八ヶ野村、下流に枝郷若瀬村が立地する。東南は七ヶ越の難所。古来神領で中世は七箇御園のうちであったといわれる。「氏経神事記」応仁二年(一四六八)九月条に「下向人夫等如常但七ケ越難所之間」とみえ、滝原宮参向の例幣使下向の順路であったことが知られる。
近世は和歌山藩田丸領。
古里村
ふるさとむら
[現在地名]上対馬町古里
比田勝村の北に位置し、集落は西泊浦に臨む。地名は東の西泊の古邑であることを示すと伝え(津島紀事)、浦先に塔ノ首遺跡があり、その北側に古墳時代の石室がある。往時はこの一帯深く海岸であったと想定される。中世は佐護郡(のち豊崎郡)のうちで、「津島紀略」は応長元年(一三一一)の文書に佐護郡古里浦とあり、所属する郡に疑いがあるとする。古寺跡に南北朝期の造立と推定される五輪塔(安山岩質凝灰岩製)がある。
古里村
ふるさとむら
[現在地名]鹿児島市古里町
桜島の南部に位置し、西は湯之村、東は有村。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高四〇石余。「此節湯之村より分ル」とあり、当村は湯之村から分村して成立した。文化七年(一八一〇)の百姓家数二〇(九州東海辺沿海村順)。旧高旧領取調帳では高三一石余。旧南林寺境内の桜島燃亡霊等の碑によれば、安永噴火による当村の死者六。天明五年(一七八五)当村に建てられた墓碑には当村の死者・行方不明者は二〇人と記されている。藤崎万十広次の燃之記(県立図書館蔵)、桜島噴火記録(松本家蔵)、横山氏日誌(県立図書館蔵)、日州松山燃ニ付大目附座披露写(同館蔵)によれば、当地住民は喜入と鹿児島へ避難したと伝える。
古里村
ふるさとむら
[現在地名]嵐山町古里
吉田村の北、滑川右岸の丘陵と低地に位置する。東は土塩村(現滑川町)、男衾郡との郡界にあたり、北は同郡本田村(現川本町)。天正一九年(一五九一)八月、内藤織部(種次)は徳川氏から「古里之郷内」二〇石などを宛行われた(記録御用所本古文書)。また寛永二年(一六二五)九月には永井五右衛門(長井吉次)が比企郡の「古里村」一〇石などを同じく徳川氏より宛行われている(早稲田大学図書館所蔵文書)。
古里村
ふるさとむら
[現在地名]伊仙町古里、検福 上検福
面縄村の南西に位置し、南部は海に臨む。地内に前田塔・寺後・入浜・久ジラ当などの地名がある。面縄間切の喜念
のうちで、「三州御治世要覧」に同間切一六ヵ村のうちとして「古里村」とある。村の東の入口に来村した代官を休憩させる「ゆいちゆ迎え所」という場所があり、合図の法螺貝によって女は茶・酒などをもって接待を始め、男衆は急いで地下の洞窟や横穴の崖墓に物品を運び込み、隠したという。
古里村
ふるさとむら
[現在地名]水俣市古里
久木野川沿岸の谷間にあり、西に久木野村、北に寒川村、東に中小場村がある。寛永期(一六二四―四四)の諸記録にみえず、元文(一七三六―四一)頃の「肥集録」に村名がみえる。久木野手永に属し、「国誌」に滝野山・田頭山・一ノ木山と山王権現社・観音堂・金光寺跡をあげる。明治七年(一八七四)に中小場村を合併した。寒川川と久木野川に挟まれた山地に中尾城跡があり、亀の城ともよばれる。
古里村
さとぅむら
[現在地名]和泊町古里
皆川村の南に位置し、南部は海に面する。地名のサトゥは集落を意味するシマ、サトゥに由来する。海岸には与和の浜があり、「おもろさうし」第一三に「永良部世の主の選でおちやる 御駄群れ 御駄群れ 世の主ぢよ 待ち居る 又 離れ世の主の 金鞍 掛けて 与和泊 降れて」と謡われており、琉球との交易地であったと考えられる。
古里村
ぷるさとぅむら
[現在地名]与論町古里
与論島の東部、朝戸村の東にある。南部に出毛の集落があり、沖にピヤンチク離と百合ヶ浜がみられる。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、池が二ヵ所と、沖に「地はなれ」とあり、朝戸村との間に「異国船遠見番所」と記される。
古里村
ふーざとむら
近世にあった村。古見間切瀬名方のうち。「大島私考」に瀬名方六ヵ村のうちとして「古里村」とみえ、高一五一石余とあるが、「今人家なし」と記されている。同書県立図書館本では瀬名方の禿村とする。「南島雑話」によれば、享保年間(一七一六―三六)以降に借財のために男女ともども身売りして村を捨てたため潰村になったという。
古里村
ふるさとむら
[現在地名]伊万里市南波多町古里
水留村の西方にあり、標高一〇〇メートル内外の丘陵の東端を徳須恵川が北流する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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