台明寺跡(読み)だいみようじあと

日本歴史地名大系 「台明寺跡」の解説

台明寺跡
だいみようじあと

[現在地名]国分市台明寺

天降あもり川の支流郡田こおりだ川が蛇行する急峻な山間伽藍を構えていた。天台宗寺院で、竹林山衆集院と号し、本尊阿弥陀如来であった。ただし一六世紀前半から一八世紀前半まで一時真言宗に転宗していた(三国名勝図会)。明治二年(一八六九)廃仏毀釈により廃寺となった。遺構はほとんど不明で、近世の当寺住侶の墓石群が残る一角が近世の寺跡といわれ、また中世寺地は鎮守社であった現日枝神社(中世には日吉山王社)境内にあったという説がある。同神社境内からは一三、四世紀頃の土師器が表面採集でき、南北朝期と推定される五輪塔も残存する。

〔成立〕

寺名が確認できる比較的早期の史料は長久二年(一〇四一)一一月一二日の大隅国司庁宣案(台明寺文書、以下断りのない限り同文書)であるが、当寺創建の年代については天智天皇の時代に篦竹(矢柄にする竹)の貢御所に定められたという所伝があり(応保二年五月一五日台明寺住僧等解など)、これを神武天皇の代とする伝承も残される(嘉応元年一〇月九日台明寺住僧等解)。しかしこれらの天皇にかかわる伝承は、当寺の住僧たちが寺領を他の勢力侵入から保全するために創出したものと思われる。また「三国名勝図会」にひく正嘉元年(一二五七)鐘銘によると当寺には天慶九年(九四六)頃の小鐘があったというが現存せず、詳細は不明である。しかし遅くとも一一世紀前半以前、当寺一帯は修行者たちの信仰を集めるようになり(前掲長久二年一一月一二日大隅国司庁宣案)、山修山学の聖跡として有名になっていった(前掲嘉応元年一〇月九日台明寺住僧等解)。やがて寺院としての形態を整え、衆集院という別所も建てられ(天承元年九月一七日正八幡宮執印行賢寄進状案)、修行者たちがここに集住するようになったと考えられる。一一世紀前半の当寺は特定の檀越をもたず、公家御願寺として国衙より支給される料米によって祈祷が行われていた(前掲大隅国司庁宣案)。仁治元年(一二四〇)一〇月三日の台明寺牒案に「為禦鬼気、於国衙丑寅之方、建置鎮護国家道場」とあることから、国衙の北東に位置して、これを鎮護するという意味で、霊窟から寺院への発展に国衙の強い影響があったと推測される。

前掲応保二年(一一六二)五月一五日の台明寺住僧等解によれば、この頃は比叡山延暦寺の末寺で、かつ筑前国宝満山内山うちやま(有智山寺、現福岡県太宰府市)の末山であった。平安時代には英彦ひこ山・六郷ろくごう山などの諸寺と同様天台宗系修験の一寺院であり、公家御願寺として鎮護国家の祈祷や代々の国司の祈祷を行っていた(承安三年一一月一五日台明寺住僧等解)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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