司馬相如(読み)しばしょうじょ

精選版 日本国語大辞典 「司馬相如」の意味・読み・例文・類語

しば‐しょうじょ ‥シャウジョ【司馬相如】

中国、前漢文人。字(あざな)は長卿。成都四川省)の人。景帝武帝に仕えた。賦に巧みで、「子虚の賦」「上林の賦」は、漢魏六朝の文人の模範となった。また、卓文君との交情の話は有名。(前一七九‐前一一七

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デジタル大辞泉 「司馬相如」の意味・読み・例文・類語

しば‐しょうじょ〔‐シヤウジヨ〕【司馬相如】

[前179~前117]中国、前漢の文人。成都(四川省)の人。あざなは長卿。梁の孝王の客となって作った「子虚賦」が武帝の賞賛を受け、召されて宮廷詩人となった。漢代を代表する賦の第一人者で、ほかに「上林賦」「大人賦」などがある。富豪の娘卓文君との駆け落ちは有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「司馬相如」の意味・わかりやすい解説

司馬相如
しばしょうじょ
(前179―前117)

中国、前漢の文人。字(あざな)は長卿(ちょうけい)。成都(四川(しせん)省)の人。若いころより読書を好み、撃剣を学んで景帝に仕え武騎常侍(ぶきじょうじ)となったが、職を辞して梁(りょう)に遊んだ。文学を愛する梁の孝王のもとで鄒陽(すうよう)、枚乗(ばいじょう)らと交わり、漢代に盛んとなった有韻の文である賦(ふ)の創作に努力し、「子虚(しきょ)の賦」をつくった。孝王の死後、故郷に帰ったが、職もなく、困窮のさなか富豪卓王孫の娘、文君と駆け落ちして酒屋を開いた話は名高い。「子虚の賦」が武帝の賞賛を受け、召されて郎となり、宮廷文人として活躍した。武帝の西南征伐に際し、中郎将となり功績をあげ、のちに孝文園令となった。代表作の「子虚の賦」および続編「上林の賦」は、子虚、烏有(うゆう)先生、亡是公(ぶぜこう)の3人の架空の人物の問答形式をとって、宮殿や庭園の壮麗さや狩猟の盛大さを叙述する長編である。その最後に武帝の政治に対する諷諫(ふうかん)がみられるが、これは付け足しであり「百を勧めて一を諷す」などと評される。2賦とも全編美辞麗句を連ねた美文で、漢賦の代表的作品とされ、戦国末期の『楚辞(そじ)』の伝統を引く賦形式文学の代表として六朝(りくちょう)の文人ならびに後世文学者に大きな影響を与えた。散文にも「巴蜀(はしょく)に喩(さと)す檄(げき)」「蜀の父老を難ず」などの名高い作品がある。

[根岸政子]

『「司馬相如について」(『吉川幸次郎全集6』所収・1968・筑摩書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「司馬相如」の意味・わかりやすい解説

司馬相如 (しばしょうじょ)
Sī mǎ Xiāng rú
生没年:前179-前117

中国,前漢の文人。字は長卿。蜀の成都(四川省)の人。はじめ景帝に仕えたが,のち文学の愛好家で知られた梁の孝王のもとに走り,そこで鄒陽(すうよう),枚乗(ばいじよう)ら当時の有名文人と知りあった。最初の傑作〈子虚の賦〉はこの時期の作。梁王の死後,失職して四川の臨卭(りんぎよう)に帰り,不遇をかこっていたが,やがて〈子虚の賦〉が武帝の目にとまって,都に召し出され,宮廷文人の列に加わった。彼の文名を決定づけたのは,長編の韻文〈天子游猟の賦〉(《文選》では〈子虚の賦〉〈上林の賦〉の2部に分けられる)で,武帝の上林苑とそこにくりひろげられる天子の狩猟のさまを,壮麗な美文で描きあげる。漢を代表する文学様式〈〉は,事実上この作品によって完成された。そのほか,秦の二世皇帝を悼む〈秦の二世を哀しむ賦〉や,武帝の神仙趣味を諷した〈大人(たいじん)の賦〉,散文では〈蜀の父老を難ず〉〈封禅文(ほうぜんぶん)〉などがある。
卓文君
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「司馬相如」の意味・わかりやすい解説

司馬相如
しばしょうじょ
Si-ma Xiang-ru

[生]文帝1(前179)?
[没]元狩6(前117)?
中国,前漢の文学者。成都 (四川省) の人。字,長卿。初め景帝に仕え,のち文人を優遇する梁の孝王のサロンで枚乗 (ばいじょう) ,鄒陽らと交わった。孝王の死後,困窮して郷里にいるうち,富豪の娘卓文君と相知り,駆落ちして結ばれた。のち『子虚賦』が武帝の目にとまって召され,もっぱら側近の文学者として辞賦を献じて愛顧を受けた。漢代の賦の代表的作家として,華麗で洗練された作品を残し,六朝の修辞主義文学に大きな影響を与えている。『上林賦』『大人賦』『喩巴蜀檄』などの辞賦がある。

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百科事典マイペディア 「司馬相如」の意味・わかりやすい解説

司馬相如【しばしょうじょ】

中国,前漢の文人。〈子虚の賦〉が機縁で武帝に仕え,西南の夷族との交渉に功を立てた。卓文君との恋愛は有名。宮廷文学としての〈〉の様式を確立,散文の美文化を促し六朝文学に影響を与えた。作品は〈上林の賦〉〈大人の賦〉など。

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世界大百科事典(旧版)内の司馬相如の言及

【宮廷文学】より

…【黒柳 恒男】
[中国]
 中国における宮廷文学の最初の開花期は,前漢の武帝の時代(前140‐前87)である。枚乗(ばいじよう)はその先駆的存在であり,やや遅れて司馬相如(しばしようじよ),東方朔(とうぼうさく),枚皋(ばいこう)らが現れ,全盛期を現出した。宮廷文人たちが愛好したのは,という美文の様式であり,彼らはみずからの仕える君主に従って,祭祀や遊宴そして狩猟などさまざまな場にはべり,そのありさまを壮麗に叙述した賦を献じて主の心を慰めた。…

【卓文君】より

…蜀(四川省)の臨邛(りんぎよう)の富豪卓王孫の娘。若くして夫に死別し,実家に帰っていたが,そこで文人司馬相如(しばしようじよ)と知りあい,愛しあうようになった。二人は成都に駈落ちして,生活のために酒場を開くなどの苦労も重ねた。…

【中国文学】より

…賈誼(かぎ)の〈鵩鳥(ふくちよう)の賦〉のごとく,人間の運命についての思索を重々しいスタイルで表現する。その二は記述的な賦で,その代表的作品は武帝の大庭園を描いた司馬相如(しばしようじよ)の〈上林の賦〉と長安・洛陽の都を描写した班固の〈両都の賦〉である。いずれも対句を多用し,きらびやかな文字をつらね,多数の事物を列挙して壮麗な大建築に似た構成を示す。…

【賦】より

…当時,文学の中心は宮廷にあり,宮廷文人たちは君主の心を慰めるべく創作を行ったが,その主要な様式となったのが賦である。そうした文人たちの中で,賦の最大の作家といえば,だれしも司馬相如(しばしようじよ)に指を屈する。彼において,〈鋪陳(ほちん)〉を生命とする賦の様式は,事実上完成をみたといえる。…

※「司馬相如」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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