日本最初の尼。俗名、嶋(しま)。鞍作部(くらつくりべ)の司馬達等(しばたっと)の娘。584年(敏達天皇13)、11歳(一説に17歳)のとき、蘇我馬子(そがのうまこ)が弥勒(みろく)の石像に仕える僧を求めたおり、出家して尼となった。その後、588年(崇峻天皇1)、正式の尼になるため百済(くだら)に渡り、十戒、六法、具足戒を受け、590年、帰国して尼寺の儀式を日本に移したという。大和(やまと)(奈良県)桜井寺に住して大伴狭手彦(おおとものさてひこ)の娘善徳(ぜんとく)(生没年不詳)や達等の子多須奈(たすな)(生没年不詳)らに戒を授けて出家させたと伝える。しかし正式の尼といえるかどうか、疑問が残る。
[石田瑞麿 2017年8月21日]
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(松木裕美)
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…男僧と尼僧とによって奉祀される寺院があり,長野市善光寺は大勧進と大本願とからなり,前者は男僧,後者は尼僧で旧華族から選ばれ,尼公と尊敬される。 日本の尼のはじまりは,584年に蘇我馬子が出家させた司馬達等の娘善信尼とその弟子禅蔵尼・恵善尼の3人であった。彼女らは百済にわたって戒法を学び,590年に帰国して,桜井寺に住した。…
…《扶桑略記》によれば,継体朝に渡来して,仏教公伝以前に大和国高市郡の坂田原に草堂を結んで,仏像を安置礼拝していたという。朝廷に仕えて鞍部村主(くらつくりのすくり)という小氏となり,東漢(やまとのあや)氏の統率の下に馬具・皮革製品等の生産に従うとともに,大臣(おおおみ)蘇我馬子を助けて大いに仏法の普及・興隆に努め,その女の嶋(しま)(善信尼)は日本最初の出家者となり,子の鞍部多須奈(たすな)(徳斉法師,鞍作止利の父)は用明天皇のために出家して坂田寺を造った。達等はおそらく当人が百済から渡来した中国系帰化人で,これを《元亨釈書》が南梁の人と記しているのは《扶桑略記》に大唐漢人とあるのを中国渡来と速断したものであろう。…
…【岩松 浅夫】 受戒は僧尼となる修道の基本的条件として重視され,中国では智首(569‐635)や道宣(596‐667)らにより研究流布された。日本でも司馬達等(しばたつと)の娘善信尼は588年(崇峻1)に百済に渡って受戒・戒律を学んだし,仏教の隆盛とともに自度僧が乱出したため,受戒制度の必要が痛感され,753年(天平勝宝5)唐僧鑑真一行の来航となった。三師七証の10人による受戒制はここに確立し,754年4月に東大寺大仏殿前に仮設の戒壇が設けられ,聖武上皇,光明皇太后などが菩薩戒を受け,沙弥など400余人が一行より受戒,翌755年10月に常設の戒壇院が大仏殿の西方に創建された。…
…また出家した者が在家俗人の生活にもどるのを還俗(げんぞく),復飾という。日本では敏達天皇のとき司馬達等の娘善信尼が出家したのが最初とされる。古代は僧となるのは官許制で,民間にははやくから官許を得ない私度僧や自由出家者が現れ,聖(ひじり)などといわれたが,そのほとんどが在俗生活を送る,いわゆる半僧半俗者であった。…
…ところが6世紀末ころから大和王権は,大陸の文化を積極的に摂取するために,留学生を派遣し始める。記録に残る最初の留学生は,588年百済へ派遣された善信尼ら5人の若い尼で,彼女らは受戒の法を学んで590年に帰国した。これ以後,古代の留学生はすべて男性と推定される。…
※「善信尼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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