6世紀初めころの第26代に数えられる天皇。名はヲホドで,《古事記》に袁本杼命,《日本書紀》に男大迹王,《上宮記》の逸文に乎富等大公王などと書かれているが,隅田(すだ)八幡人物画像鏡の銘文にみえる男弟王を天皇の名に当てることには,音韻の上で難がある。上の諸書によれば,天皇は応神天皇5世の孫で父は彦大人(ひこうし)王,母は父の異母妹で垂仁天皇7世の孫に当たる振媛(ふりひめ)。近江の高島にいた父が越前の三国にいた母を召し納れて天皇を生んだが,父が早く死んだため,母は天皇を伴って越前の生家に帰った。その後,《日本書紀》によれば天皇57歳のとき,武烈天皇が死んで後継者がなかったので,大連の大伴金村が主唱して天皇を越前から迎えて皇位に即け,仁賢天皇の女の手白香(たしらか)皇女を皇后とした。そこで天皇は河媛内の樟葉(くすは)宮から山背の筒城(つつき)宮,同じく山背の弟国宮などを経て,20年後に初めて大和に入って磐余(いわれ)の玉穂宮に都したという。天皇の治世は朝廷は終始朝鮮対策に追われ,任那4県の割譲,北九州の筑紫国造磐井の乱などもあって,朝鮮の形勢はますます非となっていったが,天皇は531年ころに世を去り,摂津の三嶋の藍野陵に葬られた。記紀では天皇の死後,天皇の即位以前の子である安閑,宣化両天皇が順次即位し,そのあとに手白香皇后が生んだ欽明天皇が即位したことになっているが,実は天皇の死後直ちに欽明天皇も一方で即位し,宣化天皇の死までの約8年間は両朝分立の状態だったとする見方が今日では有力となっており,その場合には天皇の死はなんらかの重大な事変によるものだったとする推測説もある。また天皇の即位については,天皇が応神天皇の5世の孫という遠い皇親であること,大和に入るまで長年月を要していることなど,きわめて異例の点が多いので,天皇が別系から出て実力によって旧権力を倒し,新王朝を開いたとする王朝交替説も一部に出されている。
→王朝交替論 →継体・欽明朝の内乱
執筆者:関 晃
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記紀に第26代と伝える天皇。没年は527年、534年の説もある。応神(おうじん)(誉田(こんだ))天皇の5世孫とされ、名は男大迹(おおど)(『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと))、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)という。6世紀初頭に越前(えちぜん)(福井県)あるいは近江(おうみ)国(滋賀県)から大和(やまと)(奈良県)の磐余宮(いわれのみや)に入って新しい王統(王朝)を築いた天皇として有名。『日本書紀』によれば、武烈(ぶれつ)(小泊瀬(おはつせ))天皇に継嗣(あとつぎ)がなかったので、大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)が中心となって越前の三国(みくに)(福井県坂井(さかい)市。『古事記』では近淡海国(ちかつおうみのくに))から迎え入れたとある。この天皇の出自については、遠く越前から入ってきたこと、大和に入るまで20年を経ていること、応神5世孫とされているがその間の系譜が明示されていないことから、地方の一豪族で、武烈亡きあとの大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解が有力である。
しかし、記紀編纂(へんさん)よりも古くさかのぼる『上宮記(じょうぐうき)』には、天皇の父系・母系の詳細な系譜が明示されていること、仁賢(にんけん)天皇の女(むすめ)手白香(たしらか)皇女を皇后としていること、継体を受け入れた大和王権自体はなんら機構的にも政策的にも質的転換をみせていないことから、継体を大和王権内部に位置した王族と考える見解もある。
[小林敏男]
『黛弘道著「継体天皇の系譜について」(『論集日本歴史1 大和政権』所収・1973・有精堂出版)』
(平野卓治)
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記紀系譜上の第26代天皇。6世紀初頭の在位という。男大迹(おおど)天皇・彦太(ひこふと)尊と称する。「古事記」「日本書紀」は応神天皇5世孫と伝え,父を彦主人(ひこうし)王,母を垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)とする。近江国高島郡に生まれ,父の死後は,母の故郷である三国(現,福井県坂井市三国町)で育ったが,武烈天皇の死後,後継者として擁立され即位したと伝える。在任中,朝鮮半島南西部のいわゆる任那(みまな)4県についての百済(くだら)の支配を承認する問題が生じ,また筑紫では新羅(しらぎ)と結んで大和政権に反抗した磐井(いわい)の反乱がおこった。死亡年に異説があることから,天皇の死後,安閑・宣化両天皇と欽明天皇との異母兄弟間に対立がおこり,2王朝の並立または内乱の可能性を主張する説もある。
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…さらに〈継体新王朝論〉がある。これは継体天皇が越前あるいは近江から迎えられたのは,近江の息長(おきなが)氏に代表される北方勢力が,武烈天皇で断絶した〈応神王朝〉のあとをうけて,大和の王朝を簒奪したとみる説で,継体を応神5世孫としたのは,その正統性を作為したにすぎないとするものである。この説は,林屋辰三郎などによって唱えられ,ことに継体の死後,安閑・宣化という,いわば〈畿外勢力〉と,欽明に代表される〈畿内勢力〉の対立抗争があり,2王朝が一時併存したとする主張によって裏づけられた。…
…仁賢天皇の死後,大臣の平群(へぐり)氏を滅ぼして武烈を即位させたとされるが,《古事記》では平群氏はこれより前,清寧天皇の死後,意祁(仁賢)・袁祁(顕宗)両皇子によって討たれたことになっている。武烈の死後,金村は群臣とはかり,応神天皇5世の孫の男大迹(おほど)王を越前から迎えて継体天皇とした。5世紀初めの継体朝には,朝鮮南部の任那(加羅)諸国への百済,新羅の進出をめぐって外交が複雑な動きを示し,金村は百済の要請に応じて任那4県――上哆唎(おこしたり),下哆唎(あるしたり),娑陀(さた),牟婁(むろ)の百済による領有を承認した。…
…《古事記》などの系譜・伝承の中において,息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)や息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)(応神天皇妃)など息長の氏名を冠する皇妃を輩出し,大王家との姻戚関係を伝える。また近江・越前を基盤として大王位についた継体天皇の擁立にあずかったとする説が有力であり,このころから中央氏族としても進出していった。舒明天皇の和風諡号(しごう)も息長足日広額天皇であり,642年その喪のときに息長山田公が日嗣(ひつぎ)の誄(しのびごと)を奉った。…
…《万葉集》巻三には来目(久米)氏の伝えた流離譚らしい,来目稚子を歌った作がある。雄略の血統を伝える仁賢天皇の娘の手白髪郎女が,継体天皇の皇后であったとなっていることを参考にすると,この2王の話は,6世紀の継体の新皇統と,5世紀の履中系,雄略系の皇統とを結ぶために,来目稚子の伝承を基として作為された公算が強く,2王の実在もまた疑問である。【吉井 巌】。…
…6世紀前半の継体朝末年に皇位継承をめぐって勃発したと想定されている内乱。《日本書紀》では継体天皇の死をその25年辛亥(531)のこととし,安閑天皇1年(534)までの2年間は空位とされる。一方,仏教公伝を《日本書紀》が壬申年(552)とするのに対し戊午年(538)として伝える《上宮聖徳法王帝説》や《元興寺縁起》によれば,欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。…
…とりわけ山石屋は,木地屋などと同様に漂泊的性格が強く,職業始祖神(職業神)にまつわる特許状をもつ場合がある。たとえば福井県の笏谷石(しやくだにいし)産地の山石屋たちは,継体(けいたい)天皇を石山開発の祖とし,天皇から石材採掘免許状を賜ったと伝え,笏谷石の採掘権は明治維新まで彼らが独占したという。 大工,とりわけ親方大工の下で使役される下級大工には出稼ぎ大工が多かった。…
…ホムツワケはここで6世紀の新皇統の始祖と記述されている。26代の継体天皇が15代応神天皇の血統に結ばれる前に,ホムツワケは継体皇統の始祖として存在し,その始祖伝承の残像がこの物語だったのである。【吉井 巌】。…
※「継体天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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