百科事典マイペディア 「名田荘」の意味・わかりやすい解説
名田荘【なたのしょう】
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若狭国遠敷(おにゆう)郡の荘園。現福井県大飯郡おおい町の旧名田庄村と小浜市中名田,口名田の地域にあった。平安末期に盛信入道の所領であった名田郷が前身。1168年(仁安3)相博(交換)により伊予内侍(藤原基房妻)が取得,ほどなく蓮華王院を本家と仰ぎ荘号を名のることとなったらしい。上・下両荘に分かれ,上荘は上村・坂本・中村・下村,下荘は知見・三重・田村の各村から成っていた。伊予内侍ののち,領家職は娘の大姫御前,その子藤原実忠,実忠外孫実盛へと伝えられ,以後ほとんど村ごとにきわめて複雑な伝領の経過を示したが,やがて14世紀半ばから後期に至り,それらの大部分は大徳寺の徳禅寺徹翁義亨に伝えられた。本家職も蓮華王院が終始唯一の存在ではなかったらしく,ある時期には亀山・後宇多両上皇や万秋門院(藤原子)が本家的存在であったことを示す史料があり,1265年(文永2)の若狭国惣田数帳には,名田荘57町6段200歩の本家が円満院とある。蓮華王院の本家職は,史料の上では1364年(正平19・貞治3)ごろまで存続したことが認められるが,その後はこれも実質的に徳禅寺の所有に帰したと見られる。鎌倉・南北朝期の史料には,荘内各村所在の名(みよう)の名称が散見する。年貢が名別に賦課されたほか,大佃,御佃,小佃と3種類の佃がやはり名別に割り当てられたり,細々用途などの負担もあった。荘官としては,預所,下司,公文(くもん)などの諸職があり,また鎌倉初期には,若狭守護津々見忠季の次男兵衛次郎と目される季行が地頭職を有したが,承久の乱に際し改替された。
鎌倉末・南北朝内乱期には,武士,比叡山山徒らの侵犯がしばしば起こり,続く一色・武田両氏の守護時代にもその被官人らの押妨が絶えなかった。その間徳禅寺の年貢収取は困難となり,戦国後期にはほとんど消滅した。なお,南北朝期ごろから上村の領家職を伝領したと思われる京都の陰陽家安倍氏が,この地に陰陽道関係の信仰を伝え,とくに戦国期に京都の戦火を避けて有宣・有春父子が荘内に居住したこともあって,その影響は長く後代に残ることになった。
執筆者:須磨 千穎
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