和田英作(読み)ワダエイサク

デジタル大辞泉 「和田英作」の意味・読み・例文・類語

わだ‐えいさく【和田英作】

[1874~1959]洋画家鹿児島の生まれ。白馬会結成参加外光派的写実の画風により、官展活躍文化勲章受章。

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精選版 日本国語大辞典 「和田英作」の意味・読み・例文・類語

わだ‐えいさく【和田英作】

  1. 洋画家。鹿児島県出身。東京美術学校卒。原田直次郎黒田清輝師事。白馬会結成に参加。フランスに留学し、帰朝後、母校教授となる。帝室技芸員。昭和一八年(一九四三)文化勲章受章。代表作渡頭夕暮」。明治七~昭和三四年(一八七四‐一九五九

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20世紀日本人名事典 「和田英作」の解説

和田 英作
ワダ エイサク

明治〜昭和期の洋画家 東京美術学校名誉教授。



生年
明治7年12月23日(1874年)

没年
昭和34(1959)年1月3日

出身地
鹿児島県垂水市

学歴〔年〕
明治学院〔明治24年〕中退,東京美術学校西洋画科選科〔明治30年〕卒

主な受賞名〔年〕
文化勲章〔昭和18年〕,文化功労者〔昭和26年〕

経歴
山幸彦、原田直次郎に洋画を学び、明治27年黒田清輝に師事する。29年白馬会創立に参加。同年東京美術学校西洋画科創設の際、助教授を命ぜられたが、辞して西洋学科選科に編入し、30年修了。卒業制作「渡頭の夕暮」は33年パリ万博に出品、受賞。32年から36年にかけてフランス留学をし、ラファエル・コランの指導を受ける。帰国後、東京美術学校教授に就任。大正8年帝国美術院会員となり、昭和7年東京美術学校長、9年帝室技芸員、10年帝国美術院付属美術研究所長、11年校長を歴任。18年文化勲章受章。28年日本芸術院第一部長。他の代表作に「こだま」「おうな」「H氏夫人肖像」「チューリップ」「黄衣の少女」などがある。

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百科事典マイペディア 「和田英作」の意味・わかりやすい解説

和田英作【わだえいさく】

洋画家。鹿児島県生れ。曾山幸彦黒田清輝らに学んだ後,1900年―1903年フランスに留学し,コランに師事した。帰国後東京美術学校教授となり,白馬会官展に作品を発表。温和な画風で,代表作に《渡頭の夕暮》がある。1943年文化勲章。
→関連項目外光派

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和田英作」の意味・わかりやすい解説

和田英作
わだえいさく
(1874―1959)

洋画家。鹿児島県生まれ。幼時に一家上京し、曽山幸彦(そやまゆきひこ)、原田直次郎に師事したのち、1894年(明治27)黒田清輝(せいき)の天真道場に入り、外光派画風を学ぶ。翌年内国勧業博覧会に『海辺の早春』を出品、妙技二等賞を受ける。96年白馬(はくば)会の創立に参加、また東京美術学校助教授に任命されるが辞退し、同校西洋画科選科の第1回卒業生となる。1900~03年文部省留学生としてパリでラファエル・コランに学び、パリ万国博に出品、褒状を受けるほか、サロンに入選。帰国して母校教授、19年(大正8)帝国美術院会員となり、23年フランス政府より叙勲、32年(昭和7)東京美術学校校長、34年帝室技芸員となる。その間各種の勧業博覧会で受賞のほか、文展・帝展の審査員を務め、43年には文化勲章を受章した。代表作に『渡頭(ととう)の夕暮』『思郷』『こだま』など。

[小倉忠夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「和田英作」の意味・わかりやすい解説

和田英作
わだえいさく

[生]1874.12.23. 鹿児島
[没]1959.1.3. 清水
洋画家。 1891年曾山幸彦,原田直次郎,のちに黒田清輝に師事。 95年第4回内国勧業博覧会に出品した『海辺の早春』が2等妙技賞を受賞し,世に認められた。 96年東京美術学校助教授に推されたが翌年辞職し,学生として同校に編入し5ヵ月後に卒業。 99年渡欧して,パリでは R.コランに師事し 1903年帰国。母校教授,32年から校長をつとめた。文展や白馬会に,外光派の流れをくむ堅実で技巧的な官学風の作品を出品。また帝室技芸員,帝国芸術院会員となり,43年文化勲章受章,51年文化功労者,日本芸術院会員。主要作品は『渡頭の夕暮』 (1897,東京芸術大学) ,『こだま』 (1902) ,『おうな』 (08,東京国立近代美術館) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「和田英作」の解説

和田英作 わだ-えいさく

1874-1959 明治-昭和時代の洋画家。
明治7年12月23日生まれ。曾山幸彦(そやま-さちひこ),原田直次郎,黒田清輝らにまなぶ。明治29年白馬会創立に参加。フランス留学から帰国後,母校東京美術学校(現東京芸大)の教授となり,のち同校校長。文展審査員,帝国美術院会員,帝室技芸員。昭和18年文化勲章。昭和34年1月3日死去。84歳。鹿児島県出身。作品に「渡頭の夕暮」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「和田英作」の解説

和田英作
わだえいさく

1874.12.23~1959.1.3

明治~昭和期の洋画家。鹿児島県出身。曾山幸彦(さちひこ)・原田直次郎に学び,天真道場に入門。白馬会創立に参加する。1897年(明治30)東京美術学校に編入。「渡頭の夕暮」などを発表する。99年渡独,翌年パリに移りラファエル・コランに師事した。東京美術学校教授,のち校長。帝国美術院会員・帝室技芸員・芸術院会員。文化勲章受章。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「和田英作」の解説

和田英作
わだえいさく

1874〜1959
明治〜昭和期の洋画家
鹿児島県の生まれ。原田直次郎,ついで黒田清輝の天真道場に学ぶ。東京美術学校卒業後渡欧,ラファエル=コランに師事した。帰国後,白馬会会員として活躍,東京美術学校教授,のち校長を務める。作風は外光派で技巧に長じ官学風。1943年文化勲章受章。代表作に『渡頭の夕暮』『懐郷』など。

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367日誕生日大事典 「和田英作」の解説

和田 英作 (わだ えいさく)

生年月日:1874年12月23日
明治時代-昭和時代の洋画家。東京美術学校教授
1959年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の和田英作の言及

【印象主義】より

…この新風は,96年,東京美術学校に西洋画科が設けられて黒田がその主任となり,またそれまでの明治美術会に対して黒田を中心とする白馬会が結成されるに及んで大きな力となり,従来の旧派,脂(やに)派に対して,新派,紫派と呼ばれて,その後の日本洋画の中心的傾向となった。この傾向は,黒田の弟子の岡田三郎助,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),中沢弘光(1874‐1964),藤島武二らに受け継がれ,青木繁も,一時印象派風の海浜風景を描いた。明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。…

【明治・大正時代美術】より

…また明治美術会を脱し,フランスの明るく自由な画家社会を理想とする新しい絵画団体白馬会を結成,主宰する。黒田は美術学校と白馬会に拠って,藤島,岡田をはじめ,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),白滝幾之助(1873‐1959),長原孝太郎(止水。1864‐1930),中沢弘光(1874‐1964),北蓮蔵(きたれんぞう)(1876‐1949),小林万吾(1870‐1947)ら,明治後期の洋画壇を築いた多くの新人を育てた。…

※「和田英作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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