四日市場村(読み)よつかいちばむら

日本歴史地名大系 「四日市場村」の解説

四日市場村
よつかいちばむら

[現在地名]都留市四日市場

桂川とその支流菅野すげの川に挟まれた平坦地に位置し、南西は下谷しもや村。甲州道中から大月宿で分れた富士道が村内を通り、往還沿いの集落は宿的景観をなしている。村内を流れる菅野川は文化三年(一八〇六)の村絵図(都留市蔵)に「御祓川」とあり、通称みそぎ川という。集落の南東、東の井倉いぐら村境には生出おいで山があり、その山陰の日陰部分に集落はあるが、田畑は日向部分に広がっている。村名の由来は中世に市が開かれたことによる。「勝山記」天文二年(一五三三)条に、同年二月のさる(現大月市)焼失の記事に続いて「四ケ市ハモ焼ケ申候」とあり、当地の市場は火災に遭って焼失している。市場はその後再興されたようで、同一九年と推定される二月五日の小山田信有過所(向嶽寺文書)では、塩山から四日市場へ往来する人馬の通行を許可することが初狩はつかり(現大月市)の宿所中へ指示されている。


四日市場村
よつかいちばむら

[現在地名]石和町四日市場

窪中島くぼなかじま村の南に位置する。村の北西端を笛吹川が西南西方向に流れ、東を鵜飼うかい(金川)が南西流し、両河川の氾濫原の発達した平坦地に立地する。天正一一年(一五八三)四月一九日の徳川家康判物写(一蓮寺文書)によると、一蓮いちれん(現甲府市)は四日市場内一一貫五〇〇文を、また同日石和八幡神社も当地内で一貫一三五文を安堵されている(「徳川家康印判状写」社記)。同年五月一三日には美和みわ神社(現御坂町)に対しても一貫三三〇文が当地で安堵され(「徳川家奉行連署神領証文」八代金蔵氏所蔵文書)、伊奈熊蔵検地後の天正一七年一一月二三日、石和八幡神社が五俵を当地で認められている(「伊奈忠次神領証文」土屋金蔵家文書)

慶長古高帳では高一千二石余、成瀬隼人領。貞享二年采地簿(臆乗鈔)では旗本永田・大河内(二氏)領が設定されており、元禄郷帳でもこの旗本三氏領。宝永二年(一七〇五)以降の領主の変遷は市部いちべ村に同じ。享保四年(一七一九)検地帳(県立図書館蔵)によると高一千八〇石余、反別は田方五一町余(麻田九反余・麦田三町八反余・上田六町八反余・中田一四町六反余・下田一五町二反余・下々田八町五反余・新下々田一町余)・畑方二三町余(麻畑一町余・上畑三町四反余・中畑六町九反余・下畑三町二反余・下々畑一町三反余・新下々畑七反余・屋敷六町二反余)円福寺二反余・恵法えほう寺二反余・慈恩寺一反余・涼泉寺一反余・元正げんしよう院二反余など合せて二町四反余の除地がある。


四日市場村
よつかいちばむら

[現在地名]中新田町四日市場

鳴瀬なるせ川左岸の低平地にあり、南西対岸は四竈しかま(現色麻町)、西は中新田村、北は下狼塚しもおいぬつか村、東は雑式目ぞうしきのめ村、南は下新田しもにいだ村に接する。村名はかつて四の日の三斎市があったためで、安永年間(一七七二―八一)当時も四町四方の元宿もとしゆくという所があり、二〇〇年ほど前には町場で、寛永年中(一六二四―四四)に今の所へ移ったという(安永風土記)。町場の移転先は明らかでないが、寛永頃までは四日市場の地に宿駅があって中新田とよばれており、これが安永期の中新田宿に移ったのではないかともみられる。「貞山公治家記録」天正一七年(一五八九)一二月二四日条によれば、政宗は当村の東方近隣志田郡中目なかのめ(現古川市)住の中目兵庫宛に証状を出し、「大崎御弓箭御本意ノ如ク執成ニ於テハ、四日市場充行ハルヘキノ旨」を約している。


四日市場村
よつかいちばむら

[現在地名]柴田町四日市場

入間野いりまの村の北東、郡東端に位置し、南東辺を阿武隈川が南から東へ曲流する。東は同川にかかる小山こやま渡で亘理わたり郡小山村(現亘理町)に通じ、北は上川名かみかわな村。阿武隈川左岸沿いに奥州街道が通る。北方山麓の小沢おざわ、川名沢の上流を上川名とよぶのに対して、古くは下川名とよばれていたと考えられ、「柴田郡誌」によれば近世初頭、阿武隈川水運の舟着場となり、四の日に市が立つようになって村名も変わったという。


四日市場村
よつかいちばむら

[現在地名]銚子市四日市場町

垣根かきね村の北西方にあり、利根川支流の高田たかだ川が芦崎あしさき村の間を流れる。銚子道が通る。延宝二年(一六七四)の裁許状(島田家文書)に村名がみえ、正明寺しようみようじ村などと野論となっている。同六年当時は旗本久世領(宮内家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では幕府領で高二六四石余。宝永六年(一七〇九)から上野高崎藩領で、同七年の岡野台村覚書(沢井家文書)では高二九五石余のうち本途二四五石余・海高二一石・新田二九石余。


四日市場村
よつかいちばむら

[現在地名]坂戸市四日市場

森戸もりど村の西にあり、北部を高麗こま川が蛇行しながら北東へ流れる。南は高麗郡町屋まちや(現鶴ヶ島市)、北は下河原しもがわら(現毛呂山町)。東境を鎌倉街道が南北に通る。村名は毎月四の日に市が立ったことに由来するという(風土記稿)。田園簿では田三〇一石余・畑一〇六石余、旗本小倉領(四〇〇石)・同藤掛領(七石余)の相給。国立史料館本元禄郷帳では全村小倉領で以後幕末に至る。元禄年中(一六八八―一七〇四)に検地が行われた。化政期の家数五〇(風土記稿)。名主を世襲した小鹿野氏は甲斐の出身で、秩父の小鹿野おがの(現小鹿野町)に移り小鹿野氏を称した。


四日市場村
よつかいちばむら

[現在地名]伊自良村小倉こぐら

高富たかとみ(現高富町)から佐野さの雛倉ひなくら(現岐阜市)に至る道、および伊自良川に沿って平井ひらい村方面に至る道の交わる位置にあり、東と南は梅原うめはら(現高富町)。もと伊自良村のうちで、村内日吉神社蔵の延宝七年(一六七九)の棟札に「伊自良郷四日市場」とある。


四日市場村
よつかいちばむら

[現在地名]高遠町大字長藤おさふじ

栗田くりた村の南、中条なかじよう村の北にある。近世においては金沢道の宿場として日割によって栗田宿と合宿を務めた。

四日市場村の地名の起りは、市が開かれたことによるのであろう。その初見は天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳で、村位は中、村高は「四百三拾壱石壱斗弐升八合 四日市場」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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