室町・戦国時代に畿内(きない)を中心にして、在地土豪や農民たちが守護の領国支配を排除し、国持(くにもち)体制を確立しようとして起こした一揆。室町時代には在地勢力として二つの階層があった。一つは在地武士や鎌倉時代の地頭(じとう)の系譜を引く荘園(しょうえん)や国衙(こくが)領の郷村(ごうそん)の領主層であり、一つは荘園内部に住み自らも農業経営に携わっていた土豪・有力名主(みょうしゅ)層である。このうち国一揆の主体となったのは後者である。この土豪・有力名主層は、荘園制下においては、荘園内で有力な経営を行うとともに、領主からは下級の荘官に任命されていたのが通例である。荘官としての特権とともに、与えられていた荘官給田(きゅうでん)や得分(とくぶん)も、この層の重要な経済的な基盤となっていた。しかし、この階層は支配機構の末端に位置づけられながらも、荘園において自ら経営を行っていたため、一般の農民と利害を共通にする点が多く、したがって、村落においては指導者としての側面をもっていた。たとえば、荘園領主に対して年貢の減免を求める闘争や井料(いりょう)など農業に必要な経費を要求する闘いにあたっては、その中心となることが多かった。
一方、このころになると、職(しき)の分化が広範化し、一筆の土地に名主職、作職、下作職といった重層的な土地所有関係が一般化してくる。直接生産者は、荘園領主に納める年貢だけではなく、地主的な得分である加地子(かじし)をも収奪されるようになってくる。農民が借銭や借米の返済が不可能になり、土地を売却して、買い手への加地子の支払いを条件に、その後も耕作を認められるという関係(地主―小作関係)が発生する。逆にいえば、加地子得分を目的とする土地所有が一般化してくるのである。このような土地集積は、酒屋・土倉(どそう)に代表される高利貸資本によって進められてくるが、この動きを阻止するための徳政(とくせい)一揆が頻発するようになってきた。このような、荘外からの高利貸資本による収奪に反対する闘争では、土豪や有力名主層も農民たちと利害が一致し、指導者としてともに闘うことができた。
ところが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)を迎えるころになると、土豪・有力名主層自身も加地子得分の集積を行うようになってきた。しかも、職の分化が以前よりも広範囲にわたるようになってきたので、その土地集積はかなり大規模なものとなっていった。その結果、これらの層と農民層の利害は、かならずしも一致しなくなってきた。荘園領主に対しては共同して闘えても、徳政一揆には利害が対立するようになってきたのである。ところで、この加地子得分は荘園制によって保障されたものではなかった。もともと得分売却による職の分化は、農民の土地保有・耕作権を守るための行動によって成立したものである。したがって、加地子得分を保障してきたのは村落の共同体規制であった。しかし、土豪層の土地集積によって、農民層との間に亀裂(きれつ)が生じると、共同体規制だけでは加地子得分を保障するのに十分ではなくなってきた。そこで、これを守ろうとする土豪層の間に共通の利害が生じ、広範囲の連合が生じるのである。
一方、この時代の守護大名は荘園制を前提として領国の支配を行っていた。荘園を押領(おうりょう)したり侵略することはあっても、荘園制を前提とし、荘園ごとに守護人夫や段銭(たんせん)を賦課した。また、各荘園の荘官に自分たちの被官を補任(ぶにん)させようとしたため、土豪・有力名主層たちはその荘官としての地位が不安定なものとなり、守護大名と対立するようになった。さらに守護大名が合戦を繰り返している場合には、彼らの生活や生命に大きな危険を与えることになった。国一揆はこのような守護支配の排除を目的にして起こされたのである。したがってそれは、多くの場合に反守護闘争という形で成立した。この点では農民層の要求とも一致するので、国一揆は土豪・有力名主層の連合による指導のもとに、広範な農民が蜂起(ほうき)する形をとった。また、それゆえに守護との闘いが可能であったのである。しかし、前述のように、すでに土豪・有力名主層との間には新しい矛盾が形成されていたのである。その経緯をもっとも詳細に伝えてくれるのが、1485年(文明17)に南山城(やましろ)で起きた山城国一揆である。
[黒川直則]
『中村吉治著『土一揆研究』(1974・校倉書房)』▽『稲垣泰彦・戸田芳実編『土一揆と内乱』(1975・三省堂)』▽『青木美智男他編『一揆の歴史』(1981・東京大学出版会)』
南北朝・室町時代に在地領主層が中央・地方における動乱への対応,および領主権確保を目的とし,契状を取り結ぶなどして地域的に連合した形態をいう。(1)一定の政治的意図をもって上から組織されたもの(九州探題今川了俊が南朝側勢力討伐のためにその軍事力として編成した面をもつ1377年(天授3・永和3)の南九州国人一揆など),(2)新任の守護に軍事的に対抗したもの(1400年(応永7)信濃国人が守護小笠原氏と戦ったもの,後述の安芸国人一揆など),(3)山城国一揆のように,畠山氏両軍を追放して国人層による国内支配をおこなった事例,などがある。いずれも外部からの政治的契機によって形成されており,その意図が果たされたり,守護大名の領国支配が進展すれば解体する。ただ,契状には衆中の相論を調停する箇条も含まれている(所領相論の関係は多いが,肥前松浦住人らの契状には下人・百姓らが逃散(ちようさん)してきた際は彼らを本主に返付するとある)。おおむね守護が国人領主層を被官化した地域では大名領国制が順調に展開し,逆に国人の一揆的結合が強い地域ではその形態が維持・強化されながら戦国大名制が成立する。
国一揆を理解するには,この自己の領主制に根ざした課題を衆中で解決しようとする機能に留意し,そのための日常的な領主連合が戦国期にかけていかに発展していくかに注目する必要がある。中世後期を通してこれらの事例を提示できるのは安芸国である。1404年(応永11)9月23日安芸国人27氏33名は5ヵ条について契約した。南北朝後期に九州探題今川了俊が安芸守護職を兼帯したもとで,守護的地位を占め勢力を伸張したのは大内氏であった。大内義弘が応永の乱で敗死したあと弟盛見は周防・長門両国に拠って幕府に対抗したが,安芸国内の大内氏与党の領主層も新任の守護山名満氏に武力抵抗しつつ,みずからの所領没収の危機を感じて一揆に結集したのである。山名氏はすでに1401,02年に備後・石見両国守護職となって大内氏を包囲する形をとっていたが,幕命によって両国から軍勢を入れて一揆の鎮圧を図り,また幕府討伐軍の派遣を通告し,06年毛利・平賀両氏を降伏させた。一揆は瓦解し,一揆衆の所領没収もおこなわれた。けれども,以後安芸国では,中央権力と地域の大名大内氏との拮抗地帯であるという地域的特性,国人領主間の婚姻関係に基づく盟約などが基盤になって,衆中相論の調停機能をもつ領主連合が強化され,1512年(永正9)の国衆一揆を経て戦国期には大内氏の影響下で毛利氏を中心にいっそう進展し,大内氏滅亡後は毛利氏を盟主とする国衆間の一揆的結合に基づく支配形態が確立した。
そこで注目されるのは,領主の人格的支配権に属する下人・中間(ちゆうげん)や領域内の負債農民らが逃散した場合,お互いに人返しをおこなって彼らを緊縛する協約が,毛利氏家中や所領を隣接する2国衆間ではすでに16世紀初めに成立していたが,1560年代初めには戦国大名毛利氏の主導のもとに安芸国衆全体で締結されていることである。南北朝・室町時代の一揆契状中の所務条項が契約上の付随的事柄と考えられるのに対して,戦国時代のそれはまさに当該地域の唯一の支配公権力として,その個々の領主制の内部構造から生じた課題を解決し,領主権を強化するための法であった。以上のように国一揆の史的性格は,対上級権力の面からのみでなく,領主と農民の関係に視座をおいて広く中世後期における領主連合の諸形態と関係づけてこそ明確にできる。
→伊賀惣国一揆 →加賀一向一揆
執筆者:岸田 裕之
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室町末~戦国期に,在地武士ら地域のおもだった住民を中核に結成された一揆。外部勢力の侵入などに対抗したり,地域の平和を維持するために結成された。南北朝末期に新守護の国入りに抵抗して追放した国人たちの信濃国一揆や,安芸国衆一揆などは国人一揆といえるが,室町末期には国人のみならず平民層や寺社なども巻きこんだ一揆が現れた。山城国一揆や山城乙訓(おとくに)郡一揆・加賀一向一揆などの著名な国一揆はしばしば郡を地域単位として結成された。なかには郡の中心となる神社を寄合(よりあい)の場としたものもある。地域の行政機能を掌握した伊賀惣国一揆のようなものもあった。
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…したがって室町幕府の体制,ことに地方支配機構としての守護が任国において領国的支配を貫徹しようとする段階においては,するどい抵抗を示している。そのために,南北朝期には守護の入部を退けようとした反守護の軍事的目的をもった国一揆が数多く結成された。 この国一揆は,その後も軍事的な目的だけではなく,地域的な政治課題の解決のためにも一揆契約を結び,一揆契状を取り交わすことが多かった。…
…しかし細川氏は摂津・和泉など他の畿内分国におけると同様,当国でも四国出身の被官のみを内衆に用いるという国人不登用策を貫いたので,分国機構から締め出された生え抜きの土豪たちの反発を招き,国人一揆が頻発した。早くも1429年(永享1)には国一揆が蜂起し,守護代香西元資(こうざいもとすけ)は更迭され,以後戦国末まで内藤氏が守護代を世襲した。49年(宝徳1)にも奥郡(天田郡,氷上郡)で土一揆の蜂起が伝えられ,多紀郡の八上(やかみ)(現,兵庫県篠山町),船井郡の八木など郡代の在庁は要塞化して城郭が形成されている。…
…族的結合の解体のなかで,長子相続制に基づく家父長制的家が一般化し,一族は家督の家臣となることを余儀なくされ,家督を頂点とする階層的な構成をとる家が形成された。これらの家は,その家を存続させるため,より大きな家と主従関係を結びタテ型に編成されていったが,一方その家の自立性を維持するため地縁的結合を結ぶものも多く,各地に国人一揆(国一揆),郡中惣(郡中惣代)などのヨコ型の領主連合が生まれた。これらの領主連合としての一揆は,族縁的結合原理を断ち切り,自主的に公共の場をつくりだした点など大きな意義が認められるが,その紛争解決を一揆の裁定にゆだねるなど,個々の領主の自立性,自力救済の観点からいえば,それは自己否定の過程ともいえる。…
…しかし応仁・文明の乱ころから指導層の地侍・土豪層が諸大名の勢力下に組織されていったため,土一揆が政争に利用されたり,少数者の暴発に陥ったりして,しだいに衰退していった。1485年から93年(明応2)まで続いた山城国一揆をはじめ,各地に国人・土豪層の地域権力樹立をめざす国一揆(くにいつき)が起こったが,これらは農民に対する支配権力である面とともに,土一揆の発展という面も含んでいる。【村田 修三】。…
※「国一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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