日本大百科全書(ニッポニカ) 「守護領国制」の意味・わかりやすい解説
守護領国制
しゅごりょうごくせい
室町幕府下の守護の任国支配が一定の進展を示した段階を示す歴史学的名辞。
[田沼 睦]
戦後研究史
戦後の研究史上では、封建制の段階論や時代区分論とかかわる理論的内容を伴って出発した。すなわち、石母田正(いしもだただし)の『中世的世界の形成』(戦時中執筆、1946年発刊)によって提起された、守護領の形成=地域的封建制の完成という仮説を踏まえ、分権的封建制の組織者とされる守護の、任国支配の内実や権力編成を示す概念として用いられたのである。
守護領国制の本格的研究は、1950年代の前半、永原慶二(ながはらけいじ)の「守護領国制の研究」および「日本における封建国家の形態」や佐藤進一(しんいち)の「守護領国制の研究」などによって確立された。
永原は、室町幕府=守護大名連合政権説を提示する一方、国人(こくじん)領主層に注目し、その守護被官化のルーズさに守護の封建的権力編成の未熟さを求め、過渡的権力との視点を提示した。佐藤も、室町幕府を大守護の連合と、勢力均衡のうえに築かれた権力であると説いた。これらを踏まえて個別研究が展開していったが、1960年代に入るとさまざまな方向から新たな問題が提起されてきた。これらの問題提起を踏まえ、佐藤は、将軍権力の求心的性格や軍事的・経済的基盤に焦点をあわせた幕府論を展開し、守護の領国支配も、将軍権力の二元性――主従制的・統治権的支配権――のなかに包摂されるものと位置づけた。将軍権力抜きの守護領国制論という藤木久志(ひさし)の批判にこたえたものであるが、これは以後の研究に多大の影響を与えていった。一方、荘園(しょうえん)制研究の面からは、黒川直則(なおのり)や大山喬平(きょうへい)によって、守護領国制が荘園制を否定するものではなく、その原理的秩序を維持し、共存関係にあることが検証されていった。さらに永原によって、守護領国制の実質的担い手であると位置づけられていた国人領主層への関心が高まり、盛行を極めた研究蓄積によって、国人領主制こそ室町期領主制の基本的形態であるとの共通認識が形成されていった。
これらの研究成果を踏まえ、守護領国制とは何かという問題が改めて提起されていった。藤木は「戦国大名にとって守護職は何であったのか」という観点から、守護職の本質を大田文(おおたぶみ)掌握による広域支配権と位置づけ、崩壊期からとらえる方法の有効性を提示した。一方、永原は、中世後期の社会を、国人領主層の地域的権力を基盤とした大名領国制という体制概念でとらえ、守護領国制と戦国大名領国制を包括した視点を提示した。岸田裕之(ひろゆき)による毛利(もうり)氏領国の歴史的形成過程の研究は、永原理論に対応したものといえよう。かくて守護領国制=地域的分権的封建制という理解は止揚されつつある。しかし、守護支配が総体として培った支配方式の一部が戦国大名へと継承されていく側面のあること、すなわち守護大名と戦国大名という両権力間の差異とともに連続面を探ろうとする研究動向などを見据え、地域的特徴=差異などを考慮しながら実態面の分析を行っているのが守護領国制研究の現状といえよう。
[田沼 睦]
守護の領国支配
室町幕府下の守護は、南北朝期を通じて、大犯(だいぼん)三箇条に加えて使節遵行(しせつじゅんぎょう)権、半済預置(はんぜいあずけおき)権、段銭(たんせん)等徴収権、闕所(けっしょ)地処理権などを獲得し、守護職の相伝化と相まって領国支配展開の条件を確保していった。しかし国内には諸領主権力が錯綜(さくそう)して存在し、権力の一元化は困難であった。また畿内(きない)・周辺地域では、国内に独自の軍事的・経済的基盤をもつことの少なかった守護も多かった。ところで、守護が、一国支配における伝統的行政組織であった国衙(こくが)機構を、目代(もくだい)以下の守護代化、被官化などによって包摂していく方法は、東西を問わずみられた。これによって大田文をも掌握した守護は、一国全体の領主・所領の状況を掌握することとなり、幕府権力を背景とした公権力を発動させる現実的根拠を得ることとなった。これはまた守護独自の課役を実現していく手段ともなったのである。東国では守護に安堵(あんど)されることの多かった国衙領は、西国でも幕府口入(くにゅう)などによって守護請(うけ)化され、事実上守護の基盤となっていった。国衙諸郷保(ごうほ)は、給人給地(きゅうにんきゅうち)、請地(うけち)代官地となり、被官関係の形成など守護の権力機構の形成にも大きな役割を担った。
一国に対する守護独自の課役は、守護役と段銭・棟別銭(むねべつせん)の2系統であった。内乱期からみられる守護役は、15世紀以降ますます拡大される。1431年(永享3)、1501年(文亀1)播磨(はりま)国鵤荘(いかるがのしょう)に課せられた普請役は、公田町別1人30日で、大田文を基準としたものであった。丹波(たんば)国大山(おおやま)荘の守護役は、15世紀中葉段階では「国定役(じょうやく)」と表現されるほど恒常化していた。守護段銭は15世紀になると現実化したが、大田文公田数が賦課基準とされ、15世紀中葉には恒常化していった。これら守護課役の特質は、一国全体に対する広域賦課であったところにある。かくて段銭免除は給付と同質化し、段銭を媒介とした知行制も形成されていったのである。
守護の権力機構の根幹は、一族および本貫(ほんがん)国で形成された譜代(ふだい)の直臣(じきしん)である。東国・九州など、国内の伝統的豪族層がそのまま守護となる場合は別として、畿内・周辺地域の守護は、多くの場合国内領主層の被官化に努めねばならなかった。国衙領・荘園の給地化、請地代官化、段銭給付、半済地の預置などがその媒介となった。守護―被官関係は、本領・給地の基準年貢高に対する一定比率の軍役負担という場合もみられるが、まだ一般化の段階ではない。国内には自立的権力である国人一揆(いっき)、在京・在国奉公衆(ほうこうしゅう)以下、守護使不入権確保の有力国人層も存在していた。かかる課題の解決は戦国期権力の担うことであったのである。
[田沼 睦]
『佐藤進一著「守護領国制の展開」(豊田武編『中世社会』所収・1954・朝倉書店)』▽『永原慶二著『日本封建制成立過程の研究』(1961・岩波書店)』▽『永原慶二著『大名領国制』(1967・日本評論社)』▽『佐藤進一著『室町幕府守護制度の研究 上』(1967・東京大学出版会)』▽『『岩波講座 日本歴史7』(旧版・1963/新版・1976・岩波書店)』▽『岸田裕之著『大名領国制の構成的展開』(1983・吉川弘文館)』