伊賀惣国一揆(読み)いがそうこくいっき

改訂新版 世界大百科事典 「伊賀惣国一揆」の意味・わかりやすい解説

伊賀惣国一揆 (いがそうこくいっき)

戦国時代に伊賀の地侍層が在地領主権を守るために一国的規模で団結した組織。隣接する近江国甲賀郡の有力地侍山中氏に伝えられた文書(神宮文庫所蔵《山中文書》)に含まれる〈惣国一揆掟之事〉が唯一の史料。その掟書は11ヵ条で,他国勢の侵入には惣国一味同心して防戦すべきこと,侵入の注進があれば里々の鐘を鳴らし直ちに出陣すること,50~17歳のものは出陣義務があり,長期にわたるときは番編成にして交代し,在々所々で武者大将を指定し惣はその下知に従うこと,惣国諸寺の老僧は国豊饒の祈禱をし若い僧は出陣すること,諸侍の被官たちに里々で起請文を書かせ服従を誓わせること,忠節百姓は侍にとりたてること,他国勢を引き入れたり内通したりするものは討伐しその所領を没収すること等々が定められている。隣接する甲賀郡中惣と連携し,合同会議を国境において野寄合の形で開くことも掟の最後の個条にある。執行部として10人の奉行を選出するなど,甲賀郡中惣と類似するので,その構造もほぼ同様であったと考えられる。その成立年代はよくわからないが,大和宇陀郡の三人衆,沢・秋山・芳野氏らが何度も伊賀に侵入したことに対する自衛からできたものらしく,長期にわたって存続した点では特異な組織であった。1578年(天正6),79年の織田信雄(のぶかつ)の伊賀攻略を失敗させたのもこのような伊賀惣国一揆の団結力であったが,81年の織田信長の攻撃で惣国一揆敗北解体し,伊賀国人の多くが殺され,惣国の寺社も多く焼き払われた。生き残った伊賀国人たちは,織田信長の死後柴田勝家と結んで勢力回復を企て,83年に筒井順慶の伊賀陣所を夜襲したが,勝家の没落でその企て,も失敗した。
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百科事典マイペディア 「伊賀惣国一揆」の意味・わかりやすい解説

伊賀惣国一揆【いがそうこくいっき】

戦国時代,伊賀国の国人(こくじん)・小領主が自らの在地領主権を守るために一国規模で結合した一揆。成立や組織を物語る史料はほとんどないが,隣接する近江国甲賀郡の小武士団の連合体である甲賀郡中惣(ぐんちゅうそう)の有力者山中氏の家に,惣国一揆の掟書(おきてがき)11ヵ条の写しが伝来している。これによると,重要事項は全員の会合で決定されていたが,日常の政務などは10名からなる〈奉行(ぶぎょう)〉によって行われ,一揆の単位集団は〈〉と呼ばれていた。この〈惣〉が一国規模で連合した一揆であることから,惣国一揆の名がある。掟書の制定年代は不明だが,1552年から1567年の間と推測されている。こうした一揆形成の背景には,周囲を山々に囲まれた天然の要害としての伊賀盆地の存在があったが,1581年織田信長の伊賀攻めによって惣国一揆は敗北・解体した。→山城国一揆国一揆加賀一向一揆
→関連項目伊賀国雑賀一揆

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世界大百科事典(旧版)内の伊賀惣国一揆の言及

【伊賀国】より

… このように伊賀国では守護領国化が進まず,国人領主による一揆連合が伊賀の主要部を支配するという特殊な形態が生じた。これが有名な伊賀惣国一揆である。国人領主66名は伊賀上野の平楽寺で談合・評定を行い,掟法を定めたという。…

※「伊賀惣国一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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