(1)日本の中世後期,在地領主層や戦国大名のとった欠落(かけおち)者の連れ戻し策。中世後期の社会を通じて広く現れた武家奉公人,百姓,下人などの欠落は,在地領主や土豪の支配や経営の基盤を不安定にしたばかりでなく,逃亡した領民の他領からの連れ戻し問題は,在地領主や土豪相互間の深刻な対立を引き起こす原因ともなった。そのため,室町期の在地領主層は互いに欠落者の拘束と相互返還,つまり人返しを主要な課題として個別に協定を交わしたり,より広く組織的に一揆の契約を結んだりした。また,かならずしも明示的な協定を伴わない領主間の人返し慣行も形成されていたとみられる。この室町期ごろの領主間の人返し協定の特徴は,百姓については,その年の領主年貢を完納していればもとの領主に拘束されないという去留の自由を原則とし,下人は無条件に本主への返還の対象とするというように,百姓と下人の帰属や拘束力に明らかな差をもち,百姓の緊縛を十分に実現しえていない点に求められる。こうした領主間の人返し協定や慣行は現実にはけっして安定的には維持されず,また在地領主の支配の強化や欠落の広がりとともに,人返しをめぐる紛争対立はむしろしだいに激しくなっていった。
初期の戦国大名は,この領主間の人返し紛争の調停を重要な契機とし課題として登場してくるのであり,やがて戦国後期には,この紛争を避け大名の軍役体系や農村支配を安定させるために,戦国大名は他人の者を抱えることを違法とする,全領国規模の人返し政策を〈国法〉として展開するにいたる。すなわち,他領や他人のもとに逃亡した欠落者の連れ戻しを希望する本領主や本主は,まず大名に申請して人返し令書の交付を受け,それをもって欠落先の領主,代官,主人などに自分で返還請求を行う,というしくみがそれである。朱印状の形式をとった大名の令書には,しばしば本主名のほか欠落者の名前や逃亡先も明記され,国法にまかせて領主,代官に申し断り,きっと召し返すべしなどと付記され,この請求に従わないものは大名の命令に対する違反として処罰される規定であった。関東の後北条氏の人返し令書が典型として知られる。この戦国後期の人返し法になると,百姓と下人の拘束の差は明示的には認められないことが多く,百姓に対する欠落の規制や緊縛の強化の方向がより顕著になっている。
なお戦国末には,こうした個別散発的な欠落に対する人返し策のほか,戦火や災害を原因として集団的に離村した農民を対象とする還住策,つまり荒廃した農村の復興を目的として,数年間にわたる年貢の減免などの優遇措置を伴う人返し策も広く行われ,逆にこの優遇措置の獲得をねらう農民の意図的な集団離村も行われた形跡がある。
執筆者:藤木 久志(2)江戸幕府が社会不安の源ともいうべき過大な都市人口を抑制するため実施した帰農政策。1790年(寛政2)相次いだ寛政改革の諸法令のなかで,旧里帰農令が出されている。これは江戸の人口過剰による需給の不安定や,打毀(うちこわし)の原因となる条件を排除するねらいであった。そのために帰農する意志のある者には田畑を提供し,旅費や夫食(ぶじき),農具代まで与えるということを法令で明らかにした。荒廃化した関東農村を立て直す意図も含まれていた。この旧里帰農令が出されると,希望者が多くなり過ぎることを心配していたほどであったが,実際の帰農出願者は少なく,十分な成果を収めたとはいえなかったのである。
江戸の住民で他国出生者は幕末期で4人に1人くらいであった。天保改革のさいも,都市人口の減少を図るため,他国出生者の帰農をすすめる政策が実施された。まず江戸の人別改めが行われ,近年入居して裏店に住んでいる者を出生地などへ帰国させるという方針をうち出した。さらに町奉行所に担当者を置いて無宿,野非人(のひにん)(非人体の無宿)に対する大規模な刈込みを行い,江戸から追放するという強硬手段を実施した。天保期(1830-44)の都市における社会・治安対策の一つとしての無宿,野非人の刈込みは,追放された野非人が半年で5000人にのぼるといわれるほどの,一応の成果をあげたともいわれている。天保改革は都市の経済や社会に対する抑制や統制を強力に行おうとしたのが基本であるが,他方において人口減退,荒廃化のみられている農村対策があったことはいうまでもない。無宿,野非人数の減少だけでなく,江戸の他国出生者が嘉永期(1848-54)には25%に減っていることや,出稼ぎ人数が減っているから,人返し令全体の効果があったともいえよう。
都市から農村への人返しを行い,人口の減少を図ろうとしたのは江戸だけでなく,大坂でも35万人の人口が約33万人くらいに減っている。また農村部にある在町(在郷町)でも同じような動きがみられている。越後の栃尾では天保期に後背地農村からの人口流入を拒否し,越中の井波でも,同じころ在町の人別帳に周辺農村からの移住者の登録を行っていない。農村部の在町を含め,江戸,大坂で実施された人返し令は,実施時期が短かったためもあって,農村人口の増加などの農村再建に効果があったとはいえないが,都市の社会不安の除去や過剰人口の減少などに一時的とはいえ効果があったといえよう。
執筆者:松本 四郎
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…また下人はしばしば,前述した仏神領などや,戦国期に〈無縁所〉〈公界寺〉などといわれた寺院をはじめ,市・町などのアジールに逃亡し,主を変えることもあった。主は曳文に,いかなる場においてもその身を捕らえうるという担保文言(もんごん)を書かせ,南北朝期になると,領主たちは相互に契約を結び,逃亡した下人の相互返還(人返し)を行うなど,下人の掌握につとめている。 このように下人を集積したのは,荘園・公領の支配者ではなく,年貢・公事の徴収を請け負い,検断権をもつ在地の領主であり,西国でも安芸の田所氏が100人以上の下人をもっていたような例はあるが,相対的に東国あるいは南九州の領主のほうが,下人の所有においては卓越していたと推定される。…
…とくに中期以降,潰百姓が続出して手余地が増加し,貢租収入の減少をもたらし,他方,彼らが離村して博徒,無宿(むしゆく)者,都市細民などに化し,これが治安上の問題ともなり,政治問題化した。その対策が幕政改革の課題の一つとなり,人返し(ひとがえし)の令が出されたが実効を収めえなかった。【葉山 禎作】。…
…そのため村落の内部で〈はしり候者見かくし候はば,となり三間として御年貢納所仕るべし〉(《今堀日吉神社文書》)と,走者を隣人の連帯責任として規制した村掟もみられる。とくに領主間ないし主人間で逃走者の帰属をめぐる紛争が絶えなかったため,鎌倉幕府法から一揆の法,戦国家法にいたるまで,数多くのいわゆる人返し法(人返し)が作られた。それは走者自体の禁令というよりは,主として逃走者の連戻しのための手続法であった。…
…しかし,藩のたび重なる検地による知行割政策によって給人の農民支配はしだいに形骸化し,寛永期(1624‐44)ごろからおそくとも明暦期(1655‐58)ごろに実施された陸奥諸藩の総検地によって,藩による農民の直接支配体制は確立した。この政策に抵抗した欠落(かけおち)・逃散(ちようさん)農民に還住令,人返し令を出した。1611‐12年ころ仙台藩は,米沢藩および相馬藩とそれぞれ百姓・下人の人返しを協定し,1621年(元和7)には盛岡藩と協定を結んでいる。…
※「人返し」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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