改訂新版 世界大百科事典 「スト権奪還闘争」の意味・わかりやすい解説
スト権奪還闘争 (ストけんだっかんとうそう)
法律で争議行為を禁止されている公務員および公共企業体職員の争議権を回復するための労働組合の闘争をいう。1945年制定の労働組合法では公務員にも争議権が認められていたが,以下にのべる経過で争議行為は禁止されるに至った。1948年7月マッカーサー書簡にもとづいて発せられた政令201号は,現業を含むすべての公務員の争議行為を禁止し,続いて同年12月改正施行された国家公務員法は,職員団体の結成は認めたが,その構成員を職員に限定し,団体交渉権を制限し,かつ争議行為を全面一律に禁止し,その〈遂行を共謀し,そそのかし,もしくはあおり,又はこれらの行為を企てた者〉に刑罰を科することとした(1951年2月施行の地方公務員法も同様の措置を講じた)。そして,この代償措置として人事院・人事委員会の給与勧告制度,身分保障その他を設けた。また,1949年6月日本国有鉄道および日本専売公社の労使関係に適用され,のちに三公社五現業(ただし公社,現業の数はその後減少)の労使関係に適用されることになった公共企業体等労働関係法(86年に国営企業労働関係法と名称変更)は労働組合の結成を認めたが,その構成員を公社等の職員に限り(4条3項),労働協約の締結権を認めたが,協定が〈公共企業体等の予算上又は資金上不可能な資金の支出を内容とする〉場合には国会の承認が必要だとし,またいっさいの争議行為およびそれを共謀しそそのかしあおる行為を禁止し,これに違反する者は解雇されることとした。そして,その代償措置として公共企業体等労働委員会のあっせん・調停・仲裁の手続を定めた。ところが,これらの法律の施行後,人事院・人事委員会の勧告,公労委の仲裁裁定が国会,議会の承認を得られず,完全実施されない事態が頻々と起き,とくに三公社五現業の組合はこれをめぐっていわゆる実力行使を行い,労使紛争が続いた。1956年8月,公労法改正施行により政府の仲裁裁定実施の努力義務が定められたが,57年春闘においては,国労,機関車労組は仲裁裁定の完全実施の確約を求めて実力行使を行い,これに対して国鉄当局は組合役員の処分を行い,組合は解雇された組合三役を選出して解雇反対闘争を実施し,当局は4条3項の要件を欠いた組合を適法なものと認めず,団体交渉を拒否し,新潟争議(国鉄新潟闘争)を頂点とする大争議に発展し,多数の解雇,懲戒処分が行われただけではなく,多数の刑事事件を発生させた。続いて58年春闘では全逓が実力行使を行ったが,国鉄と同様,実力行使→懲戒処分,刑事事件の発生→被解雇三役の再選→団体交渉拒否→団体交渉再開のための実力行使という経過をたどり,しばしば郵便物の遅滞をもたらした。それが一応の解決をみたのは59年12月であった。またこのころ(1957-59)全国的規模で勤評闘争も行われた。
こうして昭和30年代の前半,公務員法,公労法の団結権,団体交渉権,争議権に関する諸規定とその運用が労使関係上,政治上の大問題となった。これに対して総評は1957年5月,弾圧反対臨時大会を開催し,また60年10月スト権奪還特別委員会を組織し,(1)国際自由労連(ICFTU),国際産業別労働組合(ITS)と連絡をとったILO闘争,(2)法律改正のための対政府・国会闘争,(3)総評弁護団を中心とする法廷闘争を展開することになった。
(1)のハイライトは64年,ILOが初めて〈結社の自由に関する事実調査調停委員会〉(ドライヤーErik Dreyer委員長)を設置し,ジュネーブおよび日本で証人喚問を行い,65年1月ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准と政・労・使のトップの定期的会談を提案し,続いて同年7月報告書を作成し,争議行為の全面一律禁止には問題があるとし,争議行為禁止の代償措置のあり方の不備を含む日本の公共部門の労使関係についての包括的で詳細な事実認定と勧告を行ったことである。
(2)についていえば,こうした経緯のなかで,政府から87号条約と国内法との関係について依頼を受けた労働問題懇談会が1959年2月,87号条約批准と公労法4条3項,地公労法5条3項の廃止を答申したが,争議権についてはふれなかった。政府はこれを受けて87号条約批准案件および関連国内法改正法案を国会に提出,65年5月成立した。これにより団結権,団体交渉権問題については一応の法律的解決がみられ,また特別昇給により被処分者の不利益を回復する慣行もできてきた。65年10月発足した公務員制度審議会は73年9月,第3次審議会が最終答申を出すまで審議を続け,在籍専従期間の延長など部分的問題では全員一致をみたものの,中心課題である争議権についてはまとまらなかった。こうした状況のなかで,公労協加盟諸組合,総評加盟の公務員諸組合は,1961年から公式にもストライキという名称を使用するようになり,春闘や合理化反対闘争のなかでしばしばストライキを計画し実行してきた。四・一七スト,マル生反対闘争はなかでも有名であるが,これらに伴う刑事事件の発生はほとんどなくなったものの,懲戒処分は相変わらず行われた。第3次公務員制度審議会答申をめぐって,74年春闘において春闘共闘委員会はスト権奪還と国民的諸要求を結合して3次にわたる官民統一ストライキを計画し,第2次まで実施した。このなかで,春闘共闘委員会と政府との間で5項目の了解事項が確認され,これにもとづいて公共企業体等関係閣僚協議会が設置され,そのもとに労組関係委員2人を含む専門委員懇談会がつくられた。75年秋,公社側も条件付きスト権付与論を公式に表明するなかで,専門委員懇談会全体の空気はスト禁止論に傾いていた。公労協および自治労,日本都市交通労働組合(都市交),全日本水道労働組合(全水道)など地公労法関係の組合は専門委員懇談会が意見書を提出する11月26日から12月5日まで10日間のストライキを計画した。意見書は,公社,国営事業,公営事業を民営化するものと現状維持のものとに分け,前者には争議権が認められるが後者には認められない。そればかりでなく民事上の損害賠償制度の強化,刑事訴追・賃金カットの実行など抑制措置を強化すべきであるとする多数意見と条件付一括付与などの少数意見を併記した厳しいものであった。そこで関係諸組合は計画どおり史上空前の大規模長期ストライキに入った。しかし世論の風当りは強く,12月3日をもって終結せざるをえなかった。これがスト権奪還闘争の一つの頂点をなす,いわゆるスト権ストである。政府は意見書の主旨を具体化するために公共企業体等基本問題会議を78年1月発足させ,同年6月,基本問題会議は国鉄地方線,たばこ専売,アルコール専売は民営移管・争議権付与,その他は現状維持,ただし労使関係正常化のための労使の話合いの場を設けるべきだとする意見書を提出した。こうして労使のトップクラスの話合いの場として,公共企業体等労働問題懇談会が設置された。
(3)についてみると,公労法,公務員法の諸条項,とくにストライキの全面一律禁止の条項が憲法28条に抵触するかどうかという観点から全国的に多くの法廷で争われ,この論争は広く学界をも巻きこむことになった。こうしたなかで最高裁判所は公労法関係では1966年10月の全逓中郵事件判決,地公労法関係では69年4月の都教組事件判決,国家公務員法関係でも同日の全司法仙台支部事件判決で,争議行為禁止規定を合憲としながらも,その適用にあたっては,その目的が労働組合法1条1項の目的を達成するものである限り,また職務の停滞が国民生活に及ぼす影響を考慮して,制裁も必要な限度を超えない程度にとどめ,とくに刑事制裁には慎重であるべきだとする解釈を多数で示し関係諸組合を安堵させた。しかし73年4月,最高裁判所は全農林警職法事件判決で,この判例をくつがえし,公務員の争議行為一律禁止を合憲とした。また77年5月,名古屋中郵事件判決でも公労法についての最高裁判所の判例変更が行われた。こうした状況のなかで総評は中期的展望に立った立法化闘争に戦術転換した。
→公務員
執筆者:氏原 正治郎
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