国際通貨問題(読み)こくさいつうかもんだい(英語表記)international financial issues

日本大百科全書(ニッポニカ) 「国際通貨問題」の意味・わかりやすい解説

国際通貨問題
こくさいつうかもんだい
international financial issues

19世紀後半から20世紀初頭の第一次世界大戦に至るまでは、いわゆる国際通貨問題はほとんど起こらなかった。この期間は国際金本位制が確立していた時代であり、イギリスを中心に世界経済が調和的に運営されていたことにも支えられて、中心国通貨ポンドは安定し、その信頼は絶大であった。ところが第一次世界大戦によってイギリス中心の体制は崩れ、1930年代には国際金本位制も姿を消した。それ以後の国際通貨の歴史は、わずかの小康期間を除けば危機の連続であった。以下、第二次世界大戦後に限って概観してみよう。

[土屋六郎・中條誠一]

IMF体制の成立――1950年代まで

国際通貨基金(IMF)が発足した当時は、アメリカだけが絶対的な経済的優位にあり、ドル不足が存在していたため、各国とも為替(かわせ)制限の撤廃は困難な状況であったが、ひとりアメリカだけは為替制限を設けなかった。第二次世界大戦後の国際通貨体制は形式的にはIMFが中心となったためIMF体制と称されるが、実質的にはドルが基軸通貨となって運営された。ドルが基軸通貨になった背景は、なによりもアメリカの強大な経済力に負っていたが、直接的にはそれまでに蓄積された巨額の金準備によっていた。アメリカ政府保有の金準備高は、1949年には最高の246億ドルに達し、世界の貨幣用金の約3分の2を占めていた。アメリカ政府は1934年以来、外国公的機関保有のドルに対しては、金1オンス=35ドルの価格で要求がありしだい、いつでも金と交換することを保証していた。このため、諸外国政府もアメリカの巨額の金準備に安心し、金のかわりにドルを対外決済準備として保有した。こうして第二次世界大戦後の国際通貨制度は金とドルが両輪となった金・ドル本位制であった。また、公的部門の保有分に限られていたが、ドルは金との交換性をもっていたから金為替であり、その他諸国はドルと自国通貨をリンクしていたので金為替本位制であったともいえる。

[土屋六郎・中條誠一]

通貨不安の続発――1960年代

金・ドル本位制であるIMF体制は、1950年代はアメリカ経済の絶対優位を背景に安泰であった。ところが、ヨーロッパ経済が戦後復興を果たし、1958年に通貨の交換性を回復するとともに、アメリカから大量の資金がヨーロッパに投資され始めた。アメリカでは、この資本収支の赤字によって金流出が急増したため、1960年代早々にドルに不安が生じ、その後、総力をあげてドル防衛に努めざるを得なくなった。しかし、1960年代後半になると、ポンド、マルク、フラン、円などにも不安が波及し、ドルとの間でシーソーのように危機を展開した。

 1968年3月には空前の「ゴールド・ラッシュ」が起こり、ロンドン自由金市場の金価格の抑制をめざした金プール協定が崩れ、金が二重価格制へと移行した。これによって、実質上IMF体制は崩壊したといえるが、最終的には、1971年8月のニクソン・ショックで金とドルの交換が停止されたことにより、名実ともに終焉(しゅうえん)を迎えた。一時、金との兌換(だかん)がないままのドルを中心としたスミソニアン体制が成立したが、1973年には崩壊し、以後、主要先進国は変動為替相場制の時代へ移行することとなった。次に主要通貨についてその実態を概観してみよう。

[土屋六郎・中條誠一]

ドル不安

1960年秋に、ドルに対する信認が動揺して金への乗り換えラッシュが起こり、その結果、金の市場価格が1オンス=40ドルを超えて暴騰した。その原因は、アメリカの国際収支が悪化して金の流出が増えたことにある。現実に、アメリカの金準備高と金兌換圧力となる海外公的部門に対する対外短期債務(海外公的部門のドル保有残高)の関係は、1967年に逆転することになった。アメリカ政府は事態の重大さにかんがみ、急遽(きゅうきょ)ドル防衛に乗り出した。初めは輸出促進や貿易外収支の改善を中心にしたが、それでも不安は収まらなかったので、1963年には金利平衡税を新設して資本輸出の抑制を図った。しかし功を奏せず、その後ベトナム戦費の増大などが加わり、事態は好転しないまま推移し、ついに1968年3月のゴールド・ラッシュによる金の二重価格制移行、1971年8月の金・ドル交換性停止へと悪化の一途をたどった。

 ところで、ドルは、第二次世界大戦後は金やポンドにかわる国際流動性として世界に供給されてきたから、ドル防衛によってその供給が停止されると、世界経済は流動性不足となりデフレに陥るのではないかという議論(流動性ディレンマ論)がなされた。現実にはドル防衛は成功せず、ドルの垂れ流しが続き、むしろ世界的な過剰流動性インフレを招く原因にすらなったが、この議論が契機となって1969年にはIMFに特別引出権(SDR)が創設された。

[土屋六郎・中條誠一]

その他の通貨不安

ポンドは1949年の大幅な平価切下げ(1ポンド=4.03ドルから2.80ドルへ)後、一時立ち直りをみせたが、1956年のスエズ動乱を境にしてしばしば危機に陥った。とくに1960年代にはドルとシーソーの関係で危機を繰り返し、1967年11月には第二次世界大戦後二度目の平価切下げ(1ポンド=2.80ドルから2.40ドルへ)を余儀なくされた。ポンド不安の原因は、国際収支悪化とそれに基づく対外準備ポジションの悪化であるが、根本的にはイギリス経済の構造的弱体化に負うものであった。

 弱くなったドルやポンドとは対照的に、強くなった通貨の代表はマルクであり円であった。西ドイツ、日本両国とも経済復興後の経済成長は目覚ましく、その効果が輸出伸張となって現れ、国際収支は黒字基調へ変わり、通貨を強くさせた。これに対してフランス・フランは、1960年代前半はマルクとともにもっとも安定していたが、1968年の5月危機を境にして急速に弱くなった。1960年代は結局のところ、強い通貨では平価切上げ(ただし、円平価に変更はなかった)、弱い通貨では平価切下げとなり、その度合いは後半になるにつれてしだいに激しくなった。

[土屋六郎・中條誠一]

1970年代の国際通貨問題

1971年12月のスミソニアン協定によって固定為替相場制はいったん再建されたが、金の裏づけをもたないドルを中心とした国際通貨体制は、安定しなかった。1973年2月から3月にかけて起こった通貨不安を契機に、主要先進国通貨のほとんどは変動為替相場制へ移行した。1970年代、1980年代の通貨問題で特記すべきは、オイル・マネー問題と為替相場のオーバーシュート(予想外の大幅な変動)ないし乱高下であろう。

[土屋六郎・中條誠一]

オイル・マネー問題

産油開発途上国は、国際石油資本(メジャー)による石油濫掘、低価格販売に反発して、カルテル組織である石油輸出国機構(OPEC(オペック))を結成し、1973年と1979年の二度にわたって原油価格の大幅な値上げを敢行した。世界経済はその影響でインフレ、不況、国際収支不均衡のトリレンマに陥ったが、なかでも産油国と非産油国間の不均衡は空前の規模(1974年のOPECの経常収支黒字は約600億ドル、1980年のそれは約1150億ドル)に達し、もしこのオイル・マネーがOPECに蓄積されるならば、数年を経ずして国際金融システムは破局に追いやられるとの危機感が高まった。その緊急対策として打ち出されたのがオイル・マネーの還流であった。まずニューヨーク、ロンドンなどの民間金融機関への預貯金、長短期証券などへの投資促進が図られるとともに、IMF、世界銀行など国際機関を経由するオイル・マネー還流対策も講じられた。還流そのものは進展したが、非産油開発途上国の累積債務問題を招来し、1980年代は「失われた十年」ともいわれる途上国の開発金融問題に直面することになった。すなわち、早計な途上国の経済開発、それに対する民間金融機関の安易な融資などが、債務の返済不能を招き、国際的な金融システムが破綻(はたん)しかねない事態に至ったからである。最終的には、ブレディ提案(G・W・ブッシュ政権の財務長官N・ブレディによる金融策)を受け、債務国、債権国、国際金融機関、民間金融機関が協調することによって、1990年代初頭には一応の解決をみた。

[土屋六郎・中條誠一]

為替相場の乱高下・オーバーシュート

1970年代の変動為替相場制への移行は、IMF体制およびその後のスミソニアン体制の維持が不可能になったためのやむをえない選択ではあったが、当時の国際収支、とりわけ経常収支の不均衡が為替相場の変動により速やかに解消できるという期待があった。しかし、1970年代後半以降の実績は期待に反して、国際収支調整機能は十分に効果を発揮しえず、その結果、為替相場の変動はきわめて大幅で、世界経済に多大な悪影響を与えることになった。

 円相場でいえば、1977年初めには1ドル=290円台であったのが、円高の繰り返しにより1978年10月末には176円という驚異的な水準を記録した。これは、経常収支黒字下で円高が起こると、しばらくはむしろ黒字が増加し、黒字縮小には時間はかかるというJカーブ効果が作用したもので、当時、「円高が円高をよぶ」といわれた円高―黒字拡大―円高のスパイラル現象が起きたためである。1980年代に入ると、為替相場変動の主役は資本移動になった。日本の経常収支は、1980年には第二次原油価格値上げにより一時的に赤字となったが、1981年には早くも黒字基調へ転換した。にもかかわらず、円相場は1985年のプラザ合意まで下落を続けた。その主因は、レーガノミックス(アメリカのレーガン政権のとった経済政策)によるアメリカの異常な高金利と国際政治不安による資本流出であり、西欧諸国も同じ現象によって悩まされるようになった。経常収支動向ではなく、国際資本移動が為替相場に多大な影響を及ぼす時代を迎えたといえる。

[土屋六郎・中條誠一]

1980年代の国際通貨問題

1978年のIMF協定第二次改正で追認された変動為替相場制は、二度のオイル・ショックを乗り切り、1980年代以降も主要先進国により引き続き採用された。ただし、当初目標とした自由変動相場制(フリー・フロート)から、情勢により各国当局が適宜市場介入する管理相場制(管理フロート)へ変化していった。とくに、為替相場による国際収支(経常収支)調整機能が十分期待できないばかりか、国際資本取引(資本収支)の動向いかんによって、為替相場が異常な動きをすることが認識され、先進国を中心に国際的な協調が模索されることとなった。

[土屋六郎・中條誠一]

プラザ合意

1980年代に入ると、前述したようにアメリカで異常高金利が発生し、経常収支の大幅な赤字にもかかわらず、各国から資金がアメリカへ大量に流入したため、為替相場はファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)からみて、異常ともいえるドル高を呈した。

 そこで、いきすぎたドル高(1ドル=240円)を是正するため、1985年9月に先進5か国財務相・中央銀行総裁会議がニューヨークのプラザホテルで開かれ、各国が協調して外国為替市場に介入する旨の声明(プラザ合意)が出された。その協調介入によって、異常ドル高の是正に成功した。さらに、その後ドル安が加速したため(1ドル=150円)、1987年2月にはそれに歯止めをかけるルーブル合意もなされるといったように、国際的な為替政策の協調機運が高まることになった。

[土屋六郎・中條誠一]

1990年代以降の国際通貨問題

1990年代以降、世界はグローバル金融資本主義の傾向を強め、為替相場はますます国際資本移動によって、激変を強いられることになった。すなわち、世界経済の発展とアメリカの経常収支赤字の拡大による過剰な国際流動性により、2008年10月には世界のGDPの約3倍に相当する167兆ドルという巨額な金融資産が各国に蓄積され、それが国際資本取引の自由化によって、国際間を移動する時代を迎えたからである。まさしく、為替相場は購買力平価説がいう経常収支均衡(フロー均衡)ではなく、アセット・アプローチ理論(より高い期待収益を求めて資産のもちかえがなされ、ストック市場が均衡するように為替相場が瞬時に決定されるという理論)の世界に至ったということである。現実には21世紀型通貨危機といわれたアジア通貨危機、その後のロシア通貨危機など、さらには株式、債券、相場商品といった種々の金融・商品市場の動揺をもたらすことになった。

 アメリカの経常収支赤字の累増(対外純債務残高約2.5兆ドル)は、過剰な国際流動性を世界にばらまき、国際的な通貨・金融危機を頻発させただけでなく、基軸通貨ドルのサステナビリティ(持続可能性)問題を惹起(じゃっき)し、それらに対応する地域協力を強化させている。ヨーロッパでは、ドル不安からの脱却をめざした通貨統合をもたらしたし、アジアでは通貨危機再発防止のための通貨・金融協力が進展している。

[土屋六郎・中條誠一]

アジア通貨危機と通貨・金融協力

アジア諸国は、1980年代後半から「アジアの奇跡」といわれるほどの驚異的な高度成長を遂げ、世界経済の成長センターとして期待を集めた。しかし、1997年に激しい外資流出が引き金となって、まずタイで通貨危機(自国通貨価値の暴落)が発生し、次いでマレーシア、インドネシア、フィリピンなどに飛び火し、さらに11月には韓国にまで波及した。5か国のなかでタイ、インドネシア、韓国は自力で通貨の防衛ができず、IMFなどから1000億ドルを超える緊急金融支援を受け、翌年小康状態をえるまで、深刻な経済の混乱を招いた。

 通貨危機の原因で、もっとも重要な点は、従来型の経常収支危機のように、放漫な財政政策によってインフレが高進し、経常収支が悪化して外貨準備が枯渇するというものではなく、グローバル化した国際資本移動のなかで、一気に外資が逆流したことによる「資本収支危機」であったということにある。その問題点は、次の点にあった。

(1)アジア経済の成長への期待、性急な金融市場の自由化、実質ドル・ペッグ制による為替リスクへの認識不足によって、過剰な短期ドル資金が流入し、それに依存しすぎたこと。短期ドル債務への過剰依存は、その逆流が起こり、通貨が暴落する過程で、ダブル・ミスマッチ(短期調達の長期運用という期間のミスマッチ、外貨調達の国内通貨運用という通貨のミスマッチ)によって、返済資金ショートや債務膨張という深刻な打撃を与える要因となった。

(2)外資の逆流のきっかけの一つは、実質ドル・ペッグ制の下で、ドルが円やヨーロッパ通貨に対して上昇したため、アジア各国通貨の実効為替相場が上昇し、輸出が減退したこと。

(3)もう一つのきっかけは、脆弱(ぜいじゃく)な金融システムのなかで、過剰な外資の流入によるバブル発生、およびその崩壊により、金融不安が発生したこと。

 これらの反省に立つとともに、1国での対応の限界を認識したアジアでは、ASEAN+3(東南アジア諸国連合に日本、中国、韓国を加えた枠組み)を中心に、次のような通貨・金融協力が進展してきている。

(1)グローバルな資本移動の監視と、通貨アタックにみまわれないような健全な政策運営のためのサーベイランスの実施。

(2)危機が再発した場合に、各国が外貨準備を融通しあって対応するための通貨スワップ協定締結(チェンマイ・イニシアティブ)。

(3)ダブル・ミスマッチを解消し、アジアの余剰資金をアジア域内で安定的に活用するために、アジアの債券市場を育成する協力推進(アジア債券市場育成イニシアティブ)。

 ただし、実質ドル・ペッグ政策に問題があったことは認識しながらも、残念ながらいまのところアジア全体で調和的な通貨制度を構築する動きは、まだみられない。

[土屋六郎・中條誠一]

ユーロの誕生

国際通貨問題という観点からいえば、頻発するドル不安を背景に、ドルからの脱却を目ざして、独自の通貨圏を構築する最終目標が単一通貨ユーロの創出であった。1992年に、オランダで開かれたヨーロッパ共同体(EC)首脳会議で、マーストリヒ条約が調印され、経済通貨統合(EMU)に至る段階の内容と実施時期を決定した。

 まず参加国通貨とユーロの交換比率が固定され、金融政策はヨーロッパ中央銀行が一元的に運営することになった。3年の移行期間を経て、2002年初めにユーロ紙幣・硬貨が発行されて流通が始まり、各国の旧通貨との切り替えも進み、ユーロは名実ともにユーロ域の通貨となった。このユーロ域経済の規模は、人口、GDP、貿易等でみて、日本を凌駕(りょうが)し、アメリカと肩を並べる一大経済圏となっている。

 ユーロはヨーロッパ中央銀行から供給されるため、ユーロ域各国政府は個別に自立的な金融政策をとることはできなくなったが、ユーロ域内の取引には為替リスクがなくなり、通貨交換のコストも消滅した。各国の商品の価格が一目瞭然となるとともに、投資や旅行などは画期的に便利となり、市民生活に一体感が生まれるとともに、域内の競争が促進され、域内経済の効率化、活性化が促進されつつある。

 EU加盟国でありながらユーロを導入していない国、EU加盟を希望しているが現在は未加盟の国、ヨーロッパやアフリカでEUと経済関係の緊密な国々では、通貨当局はユーロとの安定した為替相場の維持を目ざした為替政策を標榜(ひょうぼう)して、介入を行ったり、準備通貨として使用しており、かつ民間でも貿易や資産運用・調達においてユーロの活用が目だつ。正確には、ユーロ導入国は「ユーロ域」であり、それ以外のこれらの国々が「ユーロ圏」とよばれ、ユーロを国際通貨として活用している。国際通貨としてのユーロの地位は、主としてユーロ圏での利用度合いによって決まるが、現状では、世界的な基軸通貨であるドルに対して、地域限定的な基軸通貨とされている。ただし、今後ドルに対する信認が後退し、複数基軸通貨体制への移行が進むならば、有力な極になりうるとみられている。

[土屋六郎・中條誠一]

世界金融危機と国際通貨体制見直し論

2008年秋に起きた世界金融危機は、アメリカのサブプライムローンの破綻が直接の発端であったとはいえ、根本的原因は肥大化したグローバル金融資本主義の暴走にあり、国際通貨問題と切り離せない。アメリカ国内だけでなく、ヨーロッパなどからも巨額の資金が債務担保証券等の購入でアメリカ債券市場に流入し、ブーム化していたものが破綻した。ヘッジファンド、投資銀行、商業銀行、保険会社といった金融機関が連鎖的に危機に直面し、国際的な信用収縮が発生したため、世界金融危機、さらには世界同時不況へと広がった。

 世界金融危機は国際通貨システムにも動揺をもたらした。短期的には、アメリカの金融機関が世界的規模で資金回収に走ったことにより、一時的な国際流動性不足が発生し、アメリカ発の危機にもかかわらず、東欧諸国、韓国などの通貨をはじめ、円以外のほとんどの通貨が、ドルに対して下落するという現象を招いた。

 長期的には、世界的な規模で金融の規制・監視が必要であるという認識が高まったことと、アメリカの金融システムのもろさが露呈されたことにより、アメリカ経済、ひいてはドルへの信認が一段と低下した。このため、ドル1極基軸通貨体制への疑念が高まり、複数基軸通貨体制の模索、SDRの機能の見直し論等が台頭している。

[土屋六郎・中條誠一]

『山本栄治著『国際通貨システム』(1997・岩波書店)』『山下英次著『ヨーロッパ通貨統合――その成り立ちとアジアへのレッスン』(2002・勁草書房)』『吉冨勝著『アジア経済の真実――奇蹟、危機、制度の進化』(2003・東洋経済新報社)』『田中素香・藤田誠一編著『ユーロと国際通貨システム』(2003・蒼天社出版)』『上川孝夫・藤田誠一・向壽一編『現代国際金融論』第3版(2007・有斐閣)』『上川孝夫・矢後和彦編『国際金融史』(2007・有斐閣)』『橋本優子・小川英治・熊本方雄著『国際金融論をつかむ』(2007・有斐閣)』『村瀬哲司著『東アジアの通貨・金融協力――欧州の経験を未来に活かす』(2007・勁草書房)』『田中素香・岩田健治編『現代国際金融』(2008・有斐閣)』

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