土光敏夫(読み)ドコウトシオ

デジタル大辞泉 「土光敏夫」の意味・読み・例文・類語

どこう‐としお〔ドクワウとしを〕【土光敏夫】

[1896~1988]実業家岡山の生まれ。経営難に陥った石川島重工業東京芝浦電気(現東芝)などの社長歴任再建を成功させた。昭和49年(1974)経団連会長就任。昭和56年(1981)には第二次臨時行政調査会(土光臨調)会長となり、行政改革に取り組んだ。

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20世紀日本人名事典 「土光敏夫」の解説

土光 敏夫
ドコウ トシオ

昭和期の実業家 日本原子力事業会会長;経団連名誉会長;元・石川島播磨重工業社長;元・東芝社長。



生年
明治29(1896)年9月15日

没年
昭和63(1988)年8月4日

出生地
岡山県御津郡大野村(現・岡山市北長瀬)

学歴〔年〕
東京高工(現・東京工業大学)機械科〔大正9年〕卒

主な受賞名〔年〕
藍綬褒章〔昭和33年〕,ブラジル南十字星大勲章〔昭和35年〕,ペルー最高勲章グラン・クルズ〔昭和46年〕,スウェーデン北極星勲章〔昭和54年〕,オランダオレンジ・ナッソー大十字勲章〔昭和54年〕,交通文化賞〔昭和58年〕,勲一等旭日桐花大綬章〔昭和61年〕

経歴
大正9年石川島造船所(現・石川島播磨重工業)入社。昭和11年石川島芝浦タービン入社。取締役を経て、21年社長。25年辞任の後、石川島重工業社長、35年播磨造船と合併し石川島播磨重工業社長、39年会長。40年には東芝社長、東芝商事社長に就任。47年東芝会長、53年石川島播磨重工相談役、55年東芝相談役に退く。この間、43年経団連副会長、49年会長、55年名誉会長、日中経済協会会長を務める。また56年行政改革への期待を担い、第2次臨時行政調査会会長に推され、“増税なき財政再建”をめざし世論の喚気に努めた。58年3月臨調解散後、行革の監視機関である臨時行政改革推進審議会会長に中曽根首相の要請により就任、61年6月の解散までつとめた。“ミスター臨調”といわれ国鉄電電公社民営化などの行政改革を推進した。財界長老政界のご意見番として大きな影響力があった。平成3年岡山市に顕彰碑が建立された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土光敏夫」の意味・わかりやすい解説

土光敏夫
どこうとしお

[生]1896.9.15. 岡山
[没]1988.8.4. 東京
経営者。1920年,東京高等工業機械科を卒業,石川島造船所に入社。1936年,石川島芝浦タービンに移り,常務,専務を経て 1946年社長に就任。1950年には経営難に陥った石川島重工業に社長として復帰し,同社の再建に尽力する。1960年,播磨造船所と合併した石川島播磨重工業の社長となり,1964~72年会長。また,1965年には石坂泰三に請われ業績の悪化した東京芝浦電気(→東芝)の社長に就任,率先垂範して同社の立て直しにあたり,1972年会長となる。技術者としての合理的な考え方と,経済自由主義の立場から経済界にも重きをなし,1974~80年には経済団体連合会(経団連)の第4代会長に就任,「行動する経団連」を標榜し石油危機後の不況克服に努めた。さらに 1981~83年には第2次臨時行政調査会の会長として「増税なき財政再建」を目指し,日本国有鉄道(国鉄)をはじめとする 3公社の民営化など,一連の行政改革に指導的役割を果たした。その後,1983~86年にも臨時行政改革推進審議会の会長として行政改革実現に力を尽くした。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「土光敏夫」の意味・わかりやすい解説

土光敏夫
どこうとしお
(1896―1988)

経営者、財界人。岡山県御津(みつ)郡大野村(現、岡山市北区)に生まれる。1920年(大正9)東京高等工業学校(現、東京工業大学)機械科を卒業し、石川島造船所入社。1936年(昭和11)石川島芝浦タービン技術部長、1946年(昭和21)同社社長。1950年石川島重工業に社長として復帰、1960年石川島播磨(はりま)重工業(現IHI)社長、1964~1972年会長。1965年東京芝浦電気(現、東芝)の社長に就任し再建に努力、1972年会長となる。1968年経済団体連合会(現、日本経済団体連合会)副会長、1974年経団連第4代会長として「行動する経団連」を実践(名誉会長)。1981年第二次臨時行政調査会会長となり、行革問題に取り組むほか、橘学苑(たちばながくえん)(中・高校)理事長として女子教育に尽力。「簡素」「シンプル・ライフ」が信条。

[浅野俊光]

『『私の履歴書』(1983・日本経済新聞社)』

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百科事典マイペディア 「土光敏夫」の意味・わかりやすい解説

土光敏夫【どこうとしお】

実業家。岡山県生れ。東京高等工業学校卒。1950年石川島重工業社長となって経営再建にあたり,1960年合併により石川島播磨重工業社長,1964年会長。1965年経営不振の東京芝浦電気社長に招かれ,1972年会長。1974年―1980年経済団体連合会会長として財界のトップに立った。1981年―1983年に第2次臨時行政調査会会長,1983年―1986年には行政改革推進審議会会長となり,行政改革を推進した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土光敏夫」の解説

土光敏夫 どこう-としお

1896-1988 昭和時代の経営者。
明治29年9月15日生まれ。戦後,石川島重工業,石川島播磨(はりま)重工業,東京芝浦電気(現東芝)などの社長を歴任。「ミスター合理化」とよばれる徹底した合理主義者。昭和49年経団連会長。56年から第2次臨時行政調査会会長もつとめ,「増税なき財政再建」と行政改革をうったえた。昭和63年8月4日死去。91歳。岡山県出身。東京高工(現東京工業大)卒。
【格言など】個人は質素に,社会は豊かに。思想(おもい)は高く,暮しは低く(信条)

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367日誕生日大事典 「土光敏夫」の解説

土光 敏夫 (どこう としお)

生年月日:1896年9月15日
昭和時代の実業家。日本原子力事業会会長;経団連会長
1988年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の土光敏夫の言及

【疑獄】より

…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…

【経済団体連合会】より

…1957‐68),植村甲午郎(元,石炭統制会理事長。1968‐74),土光敏夫(元,石川島播磨重工業社長。1974‐80),稲山嘉寛(元,新日本製鉄社長。…

※「土光敏夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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