自由民権運動対策のため,政府が地方行政を円滑にすべく地方長官を集めて開設した会議。3回のみ開かれ,元老院を上院になぞらえ,地方官会議に下院としての役割を果たさせようと意図したが,長続きしなかった。1875年大阪会議の結果,政府により立憲政体の基礎確立の方針が取り上げられ,立法機関として,同年6月,第1回の地方官会議が東京浅草の東本願寺で開催された。議長は木戸孝允。議題として地方民会,地方警察,土木工事などの諸案が審議され,町村会の開設,租税について国税と府県税の区分が設定された。地方民会については,府県会議員を公選とするか,区,戸長を任命して官選とするかなどが検討され,後者に決定した。第2回の地方官会議は78年4月に開催され,議長伊藤博文のもとで府県会規則,地方税規則,郡区町村編制法などが審議され,いわゆる三新法として布告,施行された。第3回の地方官会議は80年2月議長河野敏鎌のもとに開設され,区町村会法や備荒貯蓄法などを取り上げた。このように,地方官会議は明治国家の成立期に地方制度の形成過程で地方民会の創設の途を開いたが,開設された各地の地方議会は議決権もなく,地方官の諮問機関に位置づけられたにすぎなかった。そして地方官会議も元老院の存在に圧迫され,81年の国会開設の予告により廃止された。
執筆者:石塚 裕道
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明治前期に開かれた、地方長官を議員として構成された会議。開催回数は3回。後の単なる事務的会合である地方長官の会議と異なり、明治前期の地方制度の改革に大きな役割を果たした。当時ようやく盛んになりつつあった民撰(みんせん)議院開設論を反映して、太政官(だじょうかん)が計画、1874年(明治7)5月2日、地方行政を円滑に行う目的で地方官会議を毎年1回開くとの詔(みことのり)が下された。同時に議院憲法および規則を制定、官吏、区戸長などの議事傍聴も許した。しかし、すぐには開かれず、翌75年4月の漸次立憲政体樹立の詔でふたたび開催を公約したのちの6~7月に、木戸孝允(たかよし)を議長として第1回の会議が東京で開かれた。議案は、道路堤防橋梁(きょうりょう)の事(付(つけた)り民費の事)、地方民会の事、貧民救助方法の事、小学校設立および保護法の事であったが、とくに重要な議案は地方民会の事で、府県会、区会の議員を公選とするか、区・戸長とするかについて討議の結果、区・戸長会とすることに決した。第2回は伊藤博文(ひろぶみ)を議長として78年4~5月に開かれ、三新法の制定がおもな議題であった。第3回は同じく伊藤博文を議長として80年2月に開かれ、三新法の改正と区町村会法、備荒貯蓄法の制定が重要議題であった。
[山中永之佑]
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明治前期に行われた府県行政長官による会議。1873年(明治6)大蔵省開催の地方官会合を含め全部で4回開かれた。当時の民撰議院論に対応し,太政官が立法議会として毎年1回開くことを74年に布達した。開設は翌75年大阪会議の決定をうけたもので,第1回は同年6月20日から地方民会問題などを審議した。2・3回目は78年4月,80年2月に開かれ,三新法について論議した。
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…75年には公選民会開設7県,区戸長会開設1府22県を数えた。政府は各府県任意の民会開設がもたらす弊害を恐れて綱紀を制定し準拠させようとし,第1回地方官会議に地方民会を議題とした。その結果多数決で区戸長会を民会とすることとなったが,既設の公選民会は存続し,またその後も民権運動の発展とともに各地で民会開設要求が強まり,民会を開く地域が増え,府県議会制度の形成を必然化した。…
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