日本歴史地名大系 「坂戸村」の解説
坂戸村
さかどむら
- 埼玉県:坂戸市
- 坂戸村
市域中央部、北東流する
坂戸村
さかどむら
- 千葉県:佐倉市
- 坂戸村
坂戸村
さかどむら
- 茨城県:水戸市
- 坂戸村
水戸城の南方に位置し、東茨城台地北部にある。北は
「水府志料」に「古しへ酒戸に作る吉田文書嘉元四年 又酒門とも書しに、後に坂戸に改めらる」とあり、応永一二年(一四〇五)の吉田郷等田地検注目録写(吉田薬王院文書)に「安貞二年
坂戸村
さかどむら
坂戸村
さかどむら
坂戸村
さかどむら
- 福井県:大野市
- 坂戸村
大野街道沿いの農村で、東は大野城下に通じ、西は坂戸峠を越えて
慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では牛ヶ原村に含まれており、正保郷帳によると坂戸村は田方一六二石余・畠方六八石余。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)以降大野藩領。明和二年(一七六五)九月一一日付村絵図(「奥越文化」所収)には九人の百姓の名が記されるが、文政六年(一八二三)一〇月の郷中家数人別仕出帳(「越前宗門帳」所収)によると家数は高持九・水呑四・道場一、人数七一。
坂戸村
さかどむら
宇和川上流域の平地と丘陵部を占める村。北は
太閤検地の石高は六五一石三斗五升、耕地面積の比率は田六七パーセント、畑三三パーセントであったが、寛文検地では石高が二五パーセントも減少し、田六五パーセント、畑三五パーセントの比率となっている。「墅截」による村柄は「中ノ上」、耕地は田「中」、畑「上ノ下」、水掛り「吉」である。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田九反、畑四反五畝で、百姓数五〇人のうち本百姓三〇人、半百姓九人、四半百姓一〇人、庄屋一人に分れている。
坂戸村
さかどむら
坂戸村
さかどむら
坂戸村
さかどむら
坂戸村
さかとむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報