坂本町(読み)さかもとちよう

日本歴史地名大系 「坂本町」の解説

坂本町
さかもとちよう

[現在地名]大津中央ちゆうおう一―二丁目・浜町はままち

橋本はしもと町の東にある浜町通の両側町。町の西手になか町通のやなぎ町まで大橋おおはし堀があり、風呂屋ふろや関が、また町の東手には玄正げんしよう関が置かれている(寛保二年町絵図)。ただし「輿地志略」によれば、当町に属するのは玄正関で、風呂屋関は柳町のさらに南に続く八幡はちまん町の東「池洲町の浜べ也」という。天正一四年(一五八六)頃に始まる大津築城とともに坂本から移されたとされるが、「大津珍重記」は町屋移転を慶長五年(一六〇〇)以後とする。大津城域の東辺は当町付近までとする説があり、元禄八年町絵図に大橋(大津大橋)と記す辺りがかつての城の外堀遺構だろうという。


坂本町
さかもとちよう

[現在地名]弘前市坂本町

城の南東側に位置し、山下やました町と西川岸にしかわぎし町を結ぶ道筋町並。東は中瓦なかかわらケ町、西は田代たしろ町に接する。

慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では、町割はされていないが、付近に「かわら屋」二軒がある。延宝五年(一六七七)弘前惣御絵図(同館蔵)には、かわらけ町一丁目とあり、一二軒が屋敷割され、うち武家が一一軒で、北東北瓦きたかわらケ町との境に御丸細工所が設置される。


坂本町
さかもとちよう

[現在地名]西区京町堀きようまちぼり二丁目

難波橋なんばばし筋を隔てて新淡路しんあわじ町の西に続く両側町。町名は明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図にみえる。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数三八・役数四八役で、うち年寄分一役が無役。年寄は大和屋久左衛門。この辺りは戸・障子・襖など建具類を扱う店が集まっていたという(西区史)


坂本町
さかもとちよう

中京区高倉通丸太町下ル

南北に通る高倉たかくら(旧高倉小路)の両側町で、北は丸太町まるたまち(旧春日小路)、南は竹屋町たけやまち(旧大炊御門大路)

平安京の条坊では、町の東側は左京二条四坊一保七町西、西側は左京二条四坊一保二町東。平安中期以降は大炊御門高倉小路の北にあたる。

室町時代、応永三二年(一四二五)一一月一〇日付酒屋交名(北野天満宮史料)に「伊与 大炊御門高倉北西頬 長立」「少納言 大炊御門高倉北西頬 実祐」とみえる。


坂本町
さかもとちよう

[現在地名]小樽市長橋ながはし四―五丁目

大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い手宮裏てみやうら町より分立、坂本町が成立。大正一四年板谷宮吉(二代目)郷土発展に寄与する人物を育てるため資金を提供、小樽市立中学校(現長橋中学校)を建てている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の坂本町の言及

【下谷】より

…また下谷通りの両側には町屋が発達した。すなわち,1637年ごろに起立した坂本町,46年(正保3)以後漸次町場化した金杉町などである。そのほか武家屋敷も幾つか成立したが,この界隈は明治期まで大半が農村地帯で,文人墨客の隠棲地として著名であった。…

※「坂本町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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