18世紀後半以降の欧米列強の東アジア進出に直面して,日本でも海岸の防備がはかられた。ロシアの千島進出による蝦夷地問題を契機に,林子平,本多利明,工藤平助らが,蝦夷地開発とともに海防の必要性を説いた。とくに,1792年(寛政4),ロシア使節ラクスマンが根室に渡来して通商を求め,江戸回航を主張するに及んで老中松平定信は,長崎以外に海防体制のない欠陥を痛感し,北国郡代設置による北方防備を構想するとともに,みずから伊豆,相模を巡検して江戸湾防備体制の構築を練った。1806年(文化3)以降の蝦夷地におけるロシアとの紛争,08年のフェートン号事件を契機に,10年,会津藩に相模,白河藩に上総,安房の沿岸の防備を命じて砲台を築き,江戸湾防備にあたらせた。20年(文政3)には,会津藩に代えて浦賀奉行に,23年には,白河藩に代えて房総代官におのおの防備を命じ警備体制を継続した。25年には,イギリス船の頻繁な渡来と略奪などに対応して,長崎に来航するオランダ・中国船を除き,日本の沿岸に渡来した外国船を無差別に攻撃することを命じた異国船打払令(無二念打払令)が発令されている。しかし,37年(天保8)に起こったモリソン号事件は,打払令の危険な性格を浮彫にさせるとともに,渡辺崋山,高野長英らの蘭学者,水戸藩主徳川斉昭らが,対外的な危機を主張するきっかけとなった。翌年幕府は,目付鳥居耀蔵,伊豆韮山代官江川英竜に相模・房総沿岸の見分を命じ,江戸湾防備策を提出させ,防備体制の強化を図った。さらに40年に起こったアヘン戦争は対外的危機感を高揚させ,幕府は,国際紛争の契機となる打払令を撤回し,42年に薪水給与令を発令するとともに,諸大名に海防強化を命じ,西洋式砲術を奨励して軍事力の向上を指示した。そして,江戸湾防備の強化のため,川越藩に相模,忍藩に安房・上総沿岸の防備を命じ,下田奉行の復活,羽田奉行の新設とともに,翌年には上知(あげち)令,印旛沼掘割工事等の措置をとっている。44年以降,連年のようにイギリス,アメリカ,フランスなどの軍艦が浦賀,長崎,琉球に渡来して通商を要求する事件が相つぎ,46年には朝廷から海防強化を命じる勅書が幕府に出された。その翌年,彦根,会津両藩を江戸湾防備に加えて体制を強化し,49年には打払令復活を予告して諸大名に海防強化を督励し,四民に海防への協力を命じ,挙国的な海防体制の構築を図った。だが,有効な体制を実施しえないうちにペリーの来日を迎えて,53年(嘉永6)に,長州藩,肥後藩,越前藩など有力大名10藩に江戸湾防備を命じ,さらに,江戸湾の内海防衛のため品川沖に台場の建造に着手し,また,大船建造禁止令を解除して諸大名の大船建造・所有を許可した。有効な海防体制を構築しえなかった理由として,大船建造禁止令の固執にみられるように幕府が軍事的安全を優先する政策を採ったこと,海防強化は諸大名と領民に多大な負担を強いることになり,財政窮乏にあえぐ幕府,諸藩の財政破綻を招き,領民の激しい闘争を引き起こすことなどが考えられる。
→海防論
執筆者:藤田 覚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…1863年(文久3)片貝村を根拠とした楠音次郎を主領とする一味は赤心報国と万民の困窮を救うと呼号したが,現実には暴徒として翌年一宮藩兵等により鎮圧された。寛政ころから近海にたびたび外国船が出没し,江戸防衛のため沿岸警備が重要問題となった(海防)。1792年(寛政4)老中松平定信はみずから房総豆相の海岸を巡視しており,1841年(天保12)伊豆韮山代官江川英竜等が上総,安房,相模,伊豆を巡視し,42年には今治藩に房総海岸の警備を命じ,47年(弘化4)には会津・忍2藩に上総・安房沿岸警備を命じている。…
…儒学を学び朱子学を信奉する。1833年(天保4)江戸に遊学,39年江戸に再遊し塾を開くが,アヘン戦争(1840‐42)の衝撃をうけて対外的危機に目覚め,以後〈海防〉に専心する。直ちに江川太郎左衛門(坦庵)に入門して西洋砲術を学び,やがてみずからオランダ語を始めて西洋砲術の塾を開く。…
※「海防」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新