墨俣城(読み)すのまたじょう

日本の城がわかる事典 「墨俣城」の解説

すのまたじょう【墨俣城】

岐阜県大垣市(旧安八郡墨俣町)にあった平城(ひらじろ)。長良川木曽川などの多くの河川の合流点付近の長良川西岸に築かれた城である。この城には、1566年(永禄9)に織田信長の部将木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜のうちに築いたという言い伝えがある。それは、次のようなものである。桶狭間の戦いで東の脅威(今川氏)を取り除いた信長は、美濃への侵攻を企て義父斎藤道三を討って稲葉山城主になった斎藤義龍と対立したが、義龍は間もなく急逝し、その子斎藤龍興が家督を継いだ。このころから、信長は美濃への侵攻を本格化させる。国境の長良川東岸から川を渡河して美濃に侵攻するにあたって、信長は織田勢の橋頭堡として墨俣への築城を考えた。しかし、敵地での築城となるため困難が予想された。信長の重臣佐久間信盛や柴田勝家が築城を試みたが斎藤勢の攻撃・妨害により相次いで失敗した。このとき、軽輩の木下藤吉郎がこの難工事を買って出て信長の許可を得て築城に挑んで、見事に成功させ、織田家中で頭角を現した。藤吉郎は蜂須賀小六正勝ら川並衆と呼ばれる人々の協力を得て、長良川の上流から築城に必要な材木などを筏に組んで流し、一夜のうちに城をつくりあげたといわれている。このため、一夜城墨俣一夜城などともよばれる。1987年(昭和62)刊行の『武功夜話』に収録された「前野家古文書」には、その築城の経緯が詳細に記述されているが、太田牛一が著した『信長公記(しんちょうこうき)』では「洲股(墨俣)要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及び勝利、洲股帰城、洲股を引き払う」(巻首「十四条合戦の事」)とのみある。実際のところ、築城時期は明確ではなく、もともとあった要害(砦)を修築したものか、また新造の砦(城塞)かの議論もある。信長が斎藤氏の居城稲葉山城(その後の岐阜城、岐阜市)を攻略し美濃を制圧すると、その役目を終えて墨俣城は衰退した。『信長公記』によれば、その後、墨俣城は1584年(天正12)の小牧長久手の戦いの前夜、美濃を領有していた池田恒興の家臣伊木忠次が修築したとある。しかし、その2年後、木曽三川(長良川・木曽川・揖斐川)の大氾濫により木曽川の流れが変わり、戦略上の重要性が失われてしだいに廃れ、廃城になったと考えられている。現在、墨俣城跡の一角が一夜城跡として整備され公園になっている。園内には大垣城の天守を模した墨俣歴史資料館が建てられているほか、豊臣秀吉を祀る豊国神社がある。JR東海道本線大垣駅から岐阜聖徳学園大学行きバスで墨俣下車、徒歩約5分。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「墨俣城」の意味・わかりやすい解説

墨俣城
すのまたじょう

戦国期の城。岐阜県大垣(おおがき)市墨俣町墨俣にある。墨俣は洲俣とか墨股と書かれることもある。1566年(永禄9)織田信長が木下藤吉郎(とうきちろう)(豊臣(とよとみ)秀吉)に命じて築かせた砦(とりで)である。この地は長良(ながら)川をはじめ揖斐(いび)川、木曽(きそ)川といった大きな川が流れ、尾張(おわり)と美濃(みの)の国境に位置していた。信長は美濃稲葉山(いなばやま)城の斎藤龍興(たつおき)を攻める橋頭堡(ほ)として築城にかかったが、佐久間信盛(のぶもり)、柴田勝家(しばたかついえ)の失敗のあとようやく秀吉が成功したものである。柵などの用材を筏(いかだ)に組んで流し、短時日に築かせたことから一夜(いちや)城の異名をもつ。完成後は秀吉に預けられたが、稲葉山城落城後は不用になった。現在、河川改修の結果、城地の半分は長良川の川底になってしまっている。

[小和田哲男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「墨俣城」の意味・わかりやすい解説

墨俣城
すのまたじょう

岐阜県南西部,大垣市の飛び地墨俣にあった平城織田信長が美濃斎藤氏攻略の足場として,永禄9 (1566) 年木下藤吉郎秀吉 (豊臣秀吉 ) に築かせた。一夜城の名で有名。

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