壬生城跡(読み)みぶじようあと

日本歴史地名大系 「壬生城跡」の解説

壬生城跡
みぶじようあと

[現在地名]壬生町本丸一丁目

くろ川右岸に築かれた中世から近世にわたる平城。中世には壬生氏の主城の一つで、近世は壬生藩の政庁として存続した。本丸の規模は東西・南北とも約一四〇メートルであったが、昭和二六年(一九五一)壬生中学校の建設時にほぼ埋められ、現在遺構としては本丸南側の土塁・堀が残るだけとなっている。この跡には町立の図書館・公民館・歴史民俗資料館が建てられている。「下野一国」には壬生藩主三浦氏の居城として、壬生通より西の大手口まで六〇間と記される。享保三年(一七一八)の壬生城図(「旧県史」付録)によれば大手門を西へ入ると東郭があり、その西の中御門を過ぎると三の丸で、二の丸には巽御門、本丸には本丸御門をもって通じる。これら三郭を囲む形で侍屋敷が並び、東郭も侍屋敷で埋められる。東郭の南より西にかけては足軽長屋が割付けられている。藩主鳥居氏の時代、嘉永三年(一八五〇)編纂の「壬生領史略」によれば、本丸の総坪数一千六八〇坪余(井戸九)、二の丸は五千九五〇坪余(井戸一〇)、三の丸は三万四千三〇〇坪(井戸八)、東郭は二の丸とほぼ同規模。

〔中世〕

寛正三年(一四六二)壬生胤業が当地に城を築き、それにちなんで壬生の地名が起こったという(下野国誌)。壬生氏は崇神天皇の皇子豊城入彦命の後裔壬生部公から出たとも(宇都宮興廃記)垂仁天皇の後胤小槻宿禰今雄の苗裔壬生官務の庶流ともいうが(下野国誌)宇都宮氏の一族横田氏の系図(茨城県宇都宮広己文書)に「横田朝業 壬生三郎」とみえ、横田氏の流れとも考えられる。胤業が居館した地は現城跡北方の荒間地あら町)という。しかし壬生氏が鹿沼に進出する頃には現在の城跡の原形をなす城を築いたと考えられる。一説には壬生城は胤業の子綱重の時代に完成したものともいう。

壬生氏は一五世紀中葉から当城を本拠地として勢力を張ったとされ、永正六年(一五〇九)には連歌師宗長が当地を訪れ、壬生綱房の邸で連歌の会が催されている(東路の津登)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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