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大原重徳 おおはら しげとみ

美術人名辞典の解説

大原重徳

幕末・明治の公卿。権中納言重尹の五男。名は常麿、字は徳義、号は益壮。孝明天皇に仕え、公武の間に奔走、のち参議を経て従二位権中納言となる。維新後は議定・集議院長官などを歴任。安政勤王八十八延臣の一人。明治12年(1879)歿、78才。

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デジタル大辞泉の解説

おおはら‐しげとみ〔おほはら‐〕【大原重徳】

[1801~1879]江戸末期の公卿。尊王論を唱え、安政の大獄に連座。幕政改革に尽力。維新後は参与。

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百科事典マイペディアの解説

大原重徳【おおはらしげとみ】

幕末・維新期の公家。大原重成の養子(実は重尹(しげのぶ)の子)。1858年日米修好通商条約の勅許に反対し安政の大獄に連座するが処刑をまぬがれる。その後も一貫した尊王攘夷派として活動,1866年には反幕的な朝廷改革を建言して閉門を命ぜられた。
→関連項目島津久光寺田屋事件

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大原重徳 おおはら-しげとみ

1801-1879 幕末-明治時代の公卿(くぎょう)。
享和元年10月16日生まれ。尊攘(そんじょう)派。日米修好通商条約勅許に反対して八十八卿の列参奏上に参加。文久2年勅使として幕政改革と攘夷実行の勅命を将軍徳川家茂(いえもち)に伝達。慶応2年佐幕派公卿の追放を建議し,閉門となる。明治2年集議院長官。明治12年4月1日死去。79歳。幼名は常麿。字(あざな)は徳義。

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朝日日本歴史人物事典の解説

大原重徳

没年:明治12.4.1(1879)
生年:享和1.10.16(1801.11.21)
幕末の公家,宮中政治家。父は重尹。老中堀田正睦が条約締結の勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,これに反対して88廷臣の列参奏上に参画,翌年慎を命ぜられた。大原家は源氏。ふるく12世紀,平氏打倒の兵を挙げた源頼政になぞらえて鵺卿と敬称された。文久2(1862)年,62歳の年の6月,勅使に任ぜられ,島津久光の護衛を受けて江戸に赴き,徳川慶喜,松平慶永の幕政参与を強要。折から,長州藩世子毛利定広の持参した勅諚に久光を批判する文字があり,薩長融和の意図からこれを削除。翌年2月,この罪を問われて辞官・落飾,元治1(1864)年1月赦免。慶応2(1866)年8月,中御門経之と共に列参奏上を断行,二条斉敬,朝彦親王ら親幕派の追放を計画し失敗,閉門となる。翌年3月,処分解除。王政復古で三職制が新設され参与,以後,刑法官知事,議定,上局議長,集議院長官。明治2(1869)年賞典禄1000石を永世下賜され,翌年麝香間祗候,79歳で没した。

(井上勲)

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世界大百科事典 第2版の解説

おおはらしげとみ【大原重徳】

1801‐79(享和1‐明治12)
幕末・維新期の公家。大原家4代重尹の子。京都生れ。1858年(安政5)の条約勅許反対運動で尊攘派公家として頭角をあらわし,62年(文久2)には勅使として江戸に下り,幕政改革,攘夷実行の勅旨を伝達した。また66年(慶応2)同志の公家を糾合して,反幕的な朝廷改革を建言,閉門を命ぜられる。王政復古後,参与,刑法官知事,集議院議長などの要職を歴任し,功により賞典禄1000石を受ける。晩年は神楽道に尽くす。【羽賀 祥二】

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大辞林 第三版の解説

おおはらしげとみ【大原重徳】

1801~1879) 幕末の尊王攘夷派の公卿。1862年江戸に下向して一橋慶喜の登用、攘夷実行の勅旨を伝えた。維新後は参与。大原三位。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大原重徳
おおはらしげとみ

[生]享和1(1801).10.16. 京都
[没]1879.4.1. 東京
幕末の攘夷派公家。日米修好通商条約調印 (→安政五ヵ国条約 ) の勅許を得ようとする江戸幕府に対抗し,新進公家とともに調印不許可を朝廷に強く進言 (→安政の大獄 ) 。文久2 (1862) 年,幕府に政治改革を要求する勅使となって薩摩藩兵守護のもとに江戸へおもむいた。翌3年2月,罰を受けて辞官,髪を落し,蟄居。元治1 (64) 年罪を許され,慶応3 (67) 年参議となり,明治新政府が樹立されると参与,刑法官知事,集議院長官を歴任。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大原重徳
おおはらしげとみ
(1801―1879)

幕末・維新期の公武合体、反幕派の公家(くげ)。享和(きょうわ)元年10月16日生まれ。1858年(安政5)日米修好通商条約の勅許に反対して八八卿(きょう)の列参奏上に参画。1862年(文久2)朝廷が徳川慶喜(よしのぶ)、松平慶永(よしなが)登用を内容とする島津久光(ひさみつ)の公武合体の建言をいれた際に、これを幕府に命ずるための勅使に任ぜられ、久光とともに江戸に赴き対幕折衝を成功に導いた。この間、薩長(さっちょう)の対立を避けるため勅書を改文した。同年12月新設の国事御用掛に任命され、朝廷の中枢に登ったが、翌年、勅書改文の罪により辞官、落飾した。1864年(元治1)赦免。第二次長州征伐戦後の1866年(慶応2)8月、幕府批判の二二廷臣列参奏上を指導し、閉門された。翌年12月、王政復古によって誕生した政権に参与として加わり、以来、笠松裁判所総督、刑法官知事、議定(ぎじょう)、上局議長、集議院長官を歴任し、維新の功により賞典禄(しょうてんろく)1000石を永世下賜された。1870年(明治3)退官、麝香間祗候(じゃこうのましこう)。廷臣出身の代表的な政治家であった。明治12年4月1日没。墓地は東京・谷中(やなか)にある。[井上 勲]

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