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幕末・維新期の公武合体、反幕派の公家(くげ)。享和(きょうわ)元年10月16日生まれ。1858年(安政5)日米修好通商条約の勅許に反対して八八卿(きょう)の列参奏上に参画。1862年(文久2)朝廷が徳川慶喜(よしのぶ)、松平慶永(よしなが)登用を内容とする島津久光(ひさみつ)の公武合体の建言をいれた際に、これを幕府に命ずるための勅使に任ぜられ、久光とともに江戸に赴き対幕折衝を成功に導いた。この間、薩長(さっちょう)の対立を避けるため勅書を改文した。同年12月新設の国事御用掛に任命され、朝廷の中枢に登ったが、翌年、勅書改文の罪により辞官、落飾した。1864年(元治1)赦免。第二次長州征伐戦後の1866年(慶応2)8月、幕府批判の二二廷臣列参奏上を指導し、閉門された。翌年12月、王政復古によって誕生した政権に参与として加わり、以来、笠松裁判所総督、刑法官知事、議定(ぎじょう)、上局議長、集議院長官を歴任し、維新の功により賞典禄(しょうてんろく)1000石を永世下賜された。1870年(明治3)退官、麝香間祗候(じゃこうのましこう)。廷臣出身の代表的な政治家であった。明治12年4月1日没。墓地は東京・谷中(やなか)にある。
[井上 勲]
(井上勲)
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幕末・維新期の公家。大原家4代重尹の子。京都生れ。1858年(安政5)の条約勅許反対運動で尊攘派公家として頭角をあらわし,62年(文久2)には勅使として江戸に下り,幕政改革,攘夷実行の勅旨を伝達した。また66年(慶応2)同志の公家を糾合して,反幕的な朝廷改革を建言,閉門を命ぜられる。王政復古後,参与,刑法官知事,集議院議長などの要職を歴任し,功により賞典禄1000石を受ける。晩年は神楽道に尽くす。
執筆者:羽賀 祥二
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1801.10.16~79.4.1
幕末・維新期の公家。重尹(しげのぶ)の五男。母は唐橋在家の女。1805年(文化2)兄重成(しげなり)の養子となり,31年(天保2)従三位,38年家督相続。62年(文久2)左衛門督に任官,幕政改革・攘夷督促の勅使として江戸に赴いた。同年国事御用掛。63年2月勅定の改竄を理由に落飾・閉門に処されるが,8月赦免。66年(慶応2)朝政改革を主張する列参運動を主導,再び閉門。翌年赦免,王政復古で参与。68年(明治元)議定・集議院長官などを歴任,70年辞官し麝香間(じゃこうのま)祗候。
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