日本歴史地名大系 「大名小路」の解説 大名小路だいみようこうじ 鳥取県:鳥取市鳥取城下大名小路[現在地名]鳥取市東町(ひがしまち)一―三丁目・西町(にしまち)一丁目・同三丁目・同五丁目・尚徳町(しようとくちよう)郭内御堀端(おほりばた)の南西に並行する約三五〇間の道筋をさし、江崎下(えざきした)の惣門から北西湯所下(ゆところした)の惣門までをつなぐ、現在の県庁と県立図書館の間を南東から北西に走る国道二九号のうち、県庁第二庁舎の前から西町五丁目と材木(ざいもく)町の境界、東町三丁目を東西に二分する道と国道二九号が交わる辺りまでに相当する。この道筋左右には藩の家老を勤める着座家、着座家に次ぐ大寄合、士分の頭役である番頭の屋敷が連なっていたことから大名小路の名が生じた。道幅はおよそ八間(安政六年城下絵図)。南側から若桜(わかさ)往来・智頭(ちず)街道・鹿野(しかの)往来へつながる道筋が当小路から各々直角に南西方向に延びている。 大名小路だいみようこうじ 東京都:千代田区旧麹町区地区大名小路千代田区の東部、現在丸の内(まるのうち)と称される地域にほぼ該当する。江戸時代には江戸城内堀(馬場先堀・日比谷堀)と外堀に挟まれた範囲で、大名屋敷が立並んでいたことからこの通称が生れた。もともと一帯は湿地であったが、文禄年間(一五九二―九六)の江戸城西丸造営に伴う残土などで埋立てられ、武家屋敷地として整備された。慶長―寛永期(一五九六―一六四四)には馬場先(ばばさき)堀・日比谷(ひびや)堀沿いの八代洲(やよす)河岸には、埋立て前もと日比谷入江の漁民たちによる町屋が開け、魚介類をはじめさまざまな商品が売買された。慶長一一―一二年の江戸城拡張工事によって一帯が江戸城内に組込まれることになると、慶長八年から神田山の切崩し土による豊島洲崎(現中央区日本橋浜町から新橋辺り)の埋立が行われて市街地が形成され、町屋は同地に移転した。 大名小路だいみようこうじ 群馬県:館林市館林城下大名小路[現在地名]館林市大手町(おおてまち)・城町(しろまち)西は館林城大手門より東は内伴木(うちばんき)にあった藩校造士(ぞうし)書院に至る。南北両側には家老格重臣の邸宅が並んでいた。弘化二年(一八四五)秋元氏が出羽から館林に移封になった翌三年、同家中の一婦人が書いたお国替絵巻(山田家蔵)に「大手の御門の結構、入りて見れば大名小路、誠に立派にて目をおどろかすばかりなり」とある。町名が付けられたのは徳川綱吉在城時といわれ、金田遠江守正勝・室賀下総守正俊・曾我伊予守包助・黒田信濃守用綱・杉浦大隅守政清ら大名格の官途をもつ家臣の屋敷があったことから名付けられたという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by