改訂新版 世界大百科事典 「大坂(阪)城」の意味・わかりやすい解説
大坂(阪)城 (おおさかじょう)
大阪市中央区にある城跡。金(錦)城ともいう。城の位置する上町台地の北端は,北側に淀川,東に大和川支流と低湿地,西は平地から海に臨み,南方にのみ台地が続くという要害の地である。戦国時代,1532年(天文1)本願寺がここを本拠とし,御堂を中心に寺内町をつくり,濠,土塁を築いて城構えをしたのにはじまる。統一政権樹立を目ざす織田信長は,本願寺に大坂からの退去をせまり,両者の対立は11年にわたる石山合戦に発展した。石山の城は容易に落ちず朝廷の斡旋で和議が成り,本願寺は紀州鷺森に移り,そのさい寺内は炎上した。信長は城を手中にしたが,築城をみずに本能寺の変で急死した。その後1583年(天正11),賤ヶ岳の戦の勝利で信長の後継者の地位を確立した羽柴(豊臣)秀吉が入城,ただちに築城を開始した。まず本丸・内濠の石垣普請が始められ,このとき各国から集めた武士人足の数は2万~3万人と伝える。85年春には天守,本丸御殿以下が竣工。86年からは前回をはるかに上まわる規模で二の丸,外濠の普請,作事が行われ,88年に三の丸の普請が再開されたと思われる。94年(文禄3)には総構(そうがまえ)の濠が整備されるとともに,朝鮮使節を迎える千畳敷大広間が造られた。秀吉の没後,嗣子の秀頼が伏見城から移り,ここを居城としたが,1614年(慶長19),徳川家康と不和を生じ,大坂冬の陣が起こることとなった。籠城する豊臣方は善戦したが,結局和議が成り,その条件を曲解した徳川方は,惣堀のみならず二の丸・三の丸の濠までも埋めた。翌15年(元和1)の大坂夏の陣で豊臣方は敗れ,大坂城は猛火の中に落城した。
戦後,1619年に徳川幕府は大坂を直轄地とし,以後城代を置いて統轄,守衛させることとした。一方,20年から藤堂高虎の縄張りで城の再築をはかり,まず三の丸,二の丸と東・西・北3面の外濠の普請が行われ,22年には本丸の天守台,24年(寛永1)からは本丸・内濠,28年には二の丸の南面外濠の普請が,伏見廃城の石などを用いて西国諸大名の助役で行われた。こうして再建はなったが,65年(寛文5)雷火で天守を失い,1868年(明治1)には鳥羽・伏見の戦に敗れた幕府軍がここに拠ったため戦火をこうむり,大半の建物を焼失した。その後は陸軍の管理下にあったが,太平洋戦争で再び被災した。
現存する遺構はすべて徳川再築のものであり,〈肥後石〉〈蛸石〉などの巨石を積んだ石垣の高さ,水濠,空濠の広さは徳川幕府の権力を誇示するものであった。江戸時代の天守,本丸御殿は江戸城に次ぐ規模をもち,まわりに三重櫓と多聞櫓を連ねていた。二の丸の西・南・東側の部分には城代・加番の大名邸があり,北側には倉庫群,そして南西,南東,北西,北東に大手口,玉造口,京橋口,青屋口の四門があった。現存する建物は,本丸焰硝蔵,二の丸千貫櫓など13棟にすぎない。
豊臣時代の大坂城のことは長い間謎とされてきたが,発掘調査などで近年かなり明らかになってきた。築城時の指図と思われる棟梁中井家の〈本丸図〉によると,本丸は徳川時代とかなり異なり,南に表向御殿,中央に秀吉・北政所の住む奥向御殿,その北東隅に天守があった。天守は石垣内一部2階,石垣上6階で,旧黒田家蔵《大坂夏の陣図屛風》にその外観が描かれている。現在のコンクリート造の天守は,徳川期の天守台石垣上に,この絵をもとに復元したもので,1931年に竣工した。豊臣時代の二の丸は徳川時代とほぼ同じだが,外濠はずっと狭かった。また《冬の陣図》などによると,玉造門外に算用曲輪(くるわ),京橋門外に篠の丸,大手口門外にも大きな曲輪があり,三の丸とはそれらの総称として,また大手口の曲輪の呼称として使われたらしい。冬の陣のさいに防御線となった総構は,東は猫間川,北は淀川,西は東横堀川,南は今の空堀通にあった空濠からなっていた。その内側には大名邸や社寺,町家があり,城下町の中核をなしていた。豊臣時代の石垣の一部は,本丸の地下や南外濠,森の宮などから発見されており,建物の軒先を飾った金箔押しの瓦も出土している。
執筆者:宮上 茂隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報