日本大百科全書(ニッポニカ) 「生田万の乱」の意味・わかりやすい解説
生田万の乱
いくたよろずのらん
1837年(天保8)6月1日の明け方、平田篤胤(ひらたあつたね)の元塾頭生田万らが桑名(くわな)藩領柏崎(かしわざき)陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。万が柏崎に桜園塾を開いたのは、1836年9月で、天保(てんぽう)の飢饉(ききん)の最中であった。彼は1837年4月の書簡に「此節(このせつ)は四斗四升入にて一両二朱に御座候、五十六里はなれし山方(やまがた)にては葛(くず)之根などを喰(く)ひ、小児をば川へ流し申候、(中略)扨(さて)大塩平八郎の事御写し被下辱(くだされかたじけなく)、当方にても諸所の届書並(ならびに)大塩の四ヶ国への捨文等、逐一に写し御座候(下略)」と記しているように、飢饉の惨状を直視し、大塩の義挙に強く影響を受けていた。万と結び付いたのは、尾張(おわり)浪人鷲尾甚助(わしおじんすけ)、水戸(みと)浪人鈴木城之助と、村役人層の出雲崎(いずもざき)代官所支配の源八新田村山岸嘉藤(かとう)、新発田(しばた)藩蒲原(かんばら)郡荻島(おぎしま)村名主小沢佐右衛門、同大島村名主次男古田亀一郎らである。「奉天命誅国賊」「集忠臣征暴虚(墟)」の2旗を掲げ、与板(よいた)藩荒浜村の金兵衛、彦三郎ら8人の村民と船頭を促して柏崎に至った。おりから陣屋は類焼後の再建のため外泊者が多く、一時は大混乱に陥り、長岡藩に救援を求めるなどの失態を演じた。乱側は、鈴木が斬死(ざんし)、生田・山岸は自刃、古田・小沢は鉄砲に撃たれ、旗持ち彦三郎は賊徒と誤られ斬(き)り殺されたが、鷲尾甚助は江戸寺社奉行(ぶぎょう)に自首した。生田の妻鎬(こう)は、乱後縛についていたが、2日夜2児を絞殺して自害した。「烈女不更(まみえず)二夫」の歌がある。
[新沢佳大]
『新沢佳大著「生田万の乱の社会的構造」(『日本近世史の地方的展開』所収・1970・吉川弘文館)』▽『伊東多三郎著『国学者の道』(1971・野島出版)』