大正・昭和期の評論家。明治33年9月13日生まれ。大阪府出身。早くから社会主義に傾き、そのため茨木(いばらき)中学校を中退。検定試験に合格して第三高等学校に入学。河上肇(はじめ)、賀川豊彦(とよひこ)らに私淑した。東京帝国大学社会学科へ進んだがこれも中退。そのころから文芸評論家として頭角を現す。1925年(大正14)新潮社の『社会問題講座』の編集にあたり、また、いわゆる「大宅翻訳工場」をつくるなど、ジャーナリズムの集団作業の先鞭(せんべん)をつけた。
1933年(昭和8)10月、検挙されてから転向。太平洋戦争中は軍の宣伝活動に協力したが、戦後は猿取哲(さるとるてつ)の筆名で匿名人物評論を書き、1950年(昭和25)ごろから本格的にジャーナリズム界へ復帰。「厳正中立、徹底した是々非々主義」の立場で軽妙多彩な社会評論を展開した。頭の回転の速さ、流行語(「一億総白痴化」「駅弁大学」「恐妻」など)づくりの才能、マスコミに対する深い理解力などで大宅に及ぶ者はなく、昭和30年代、文字どおり「マスコミの三冠王」として活躍した。晩年は「大宅マスコミ塾」を開くなど、後進の育成にも力を注いだ。おもな著書として『昭和怪物伝』(1955)、『共産主義のすすめ』(1961)、『炎は流れる』(1964)などがある。1965年菊池寛(きくちかん)賞受賞。昭和45年11月22日死去。彼の集めた週刊誌・雑誌を中心とした蔵書は、死後、「大宅壮一文庫」(東京都世田谷区八幡山(はちまんやま))として公開されている。
[高須正郎]
『『大宅壮一全集』全30巻・別巻1(1980~1982・蒼洋社)』
昭和期の評論家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
評論家。大阪府に生まれる。茨木中学時代から社会問題に目覚め,中学退校後専検に合格して三高入学。このころ賀川豊彦の家に出入りする。東京帝大在学中,1924年日本フェビアン協会の創立に参加,主事に就任。大学中退後,社会主義的文芸評論家として評論活動を開始,29年には翻訳を流れ作業式に行う総合翻訳団を組織。35年ごろから徐々に社会主義を離れ,大陸,南方を転々とした。戦後は猿取哲のペンネームで執筆を再開,55年《無思想人宣言》を発表し,中立,脱イデオロギーの立場から社会評論,人物評論を展開。ものごとの本質に直截に迫るしんらつ,明快な分析を特色とし(〈一億総白痴化〉〈駅弁大学〉〈恐妻〉などの新語をつくる),放送,新聞,雑誌の寵児(ちようじ)となり〈マスコミ大将〉の異名をとる。ノンフィクション・クラブ,東京マスコミ塾などで後進の育成にも力を注いだ。没後,雑誌を中心とする蔵書は〈大宅壮一文庫〉として公開されている。おもな著作は《大宅壮一全集》全30巻(1982)に収録。
執筆者:佐々木 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…放送は無線通信による送信の一つの特殊な形態で,放送番組と呼ばれるまとまった情報を〈公衆によって直接受信されることを目的〉(放送法)として電波によって広く伝播することをいうが,一般にはラジオ放送,テレビジョン放送のことである。いわばあて先のない無線通信であるところから放送は他のマス・メディアにはみられないいくつかの特殊な機能をもつ。まず電波が届いている範囲内で受信装置さえあれば,だれでも簡単に享受できること,その情報が聴覚的,または視聴覚的に提示される非固定的,一過性のものであること,電波によって広く伝播されるので,同時に同じ情報に接触するおおぜいの人々,すなわち受信者,あるいは視聴者という分散した大聴衆(オーディエンス)を形成すること,継続的に情報を提示するものであるために速報性にまさり,常時,その情報を更新することができることなどがあげられる。…
※「大宅壮一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加