大宮院(読み)おおみやいん

改訂新版 世界大百科事典 「大宮院」の意味・わかりやすい解説

大宮院 (おおみやいん)
生没年:1225-92(嘉禄1-正応5)

嵯峨天皇の皇后藤原姞子。太政大臣西園寺実氏長女。母は四条隆衡の女,今林准后貞子。1242年(仁治3)入内し,ほどなく立后して中宮と称された。48年(宝治2)大宮院の院号宣下があり,その間,後深草亀山両天皇をはじめ,4皇子2皇女を生んだが,72年(文永9)後嵯峨法皇の死にあい,その初七日忌に落飾,法名を遍智覚と称した。関東申次西園寺家の勢威を背景に,後深草以降4代の天皇の生母あるいは祖母として敬重されたが,正応5年9月9日68歳で没し,京都東郊南禅院に葬られた。いま粟田山陵という。後嵯峨院は〈治天の君〉の選定を鎌倉幕府にゆだねて崩御したため,幕府は故院の真意を大宮院に問い,その結果亀山天皇が〈治天の君〉となった。これが持明院・大覚寺両統迭立発端であるが,大宮院が故院より譲渡された亀山殿以下多数の所領も,多くは大覚寺統に伝えられた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大宮院」の意味・わかりやすい解説

大宮院
おおみやいん
(1225―1292)

第88代後嵯峨(ごさが)天皇の中宮藤原姞子(きっし)。法名遍智覚。西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の第一女。母は四条貞子。後深草(ごふかくさ)・亀山(かめやま)天皇の母。1242年(仁治3)入内(じゅだい)して女御(にょうご)となり、ついで立后中宮職を付せられた。48年(宝治2)院号宣下、大宮院と称した。72年(文永9)後嵯峨上皇の崩御により落飾。上皇の崩御後、後深草上皇、亀山天皇兄弟がそれぞれの持分などに関し対立。困惑した鎌倉幕府は大宮院に諮(はか)り、上皇の遺詔としてこれを解決、こうしてついに亀山天皇の親政を実現させた。ここから大覚寺・持明院の両統迭立(てつりつ)へと発展していったのである。大宮院領として浄金剛院領など多くの荘園(しょうえん)があった。陵墓は京都市左京区南禅寺町の粟田(あわた)山陵。

[小野信二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大宮院」の意味・わかりやすい解説

大宮院
おおみやいん

[生]嘉禄1(1225).京都
[没]正応5(1292).9.9. 京都
後嵯峨天皇の中宮。名はきっ子。父は太政大臣西園寺実氏,母はその室准三宮貞子。仁治3 (1242) 年入内女御,同年立后中宮職につく。宝治2 (48) 年院号定めがあり大宮院と称する。文永9 (72) 年後嵯峨法皇が没して落飾。法名を遍智覚という。後深草,亀山両天皇の生母。法皇の没後,後深草上皇と亀山天皇の仲が悪く両統迭立の端はここから発した。陵墓は京都市左京区南禅寺福地町の粟田山陵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大宮院」の解説

大宮院 おおみやいん

1225-1292 鎌倉時代,後嵯峨(ごさが)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
嘉禄(かろく)元年生まれ。西園寺実氏(さねうじ)の長女。仁治(にんじ)3年女御として入内(じゅだい)し,中宮となる。後深草天皇,亀山天皇らを生む。宝治(ほうじ)2年院号をうける。文永9年天皇死去にともない出家した。正応(しょうおう)5年9月9日死去。68歳。名は姞子(きつし)。法名は遍智覚。

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世界大百科事典(旧版)内の大宮院の言及

【一条院】より

…大宮院とも称し,平安中期に一条天皇の里内裏となるに及んで脚光をあびた邸宅。大内裏の北東みちと大宮大路をはさんで東に位置し,東西に長く2町を占めていた。…

【風葉和歌集】より

…鎌倉時代の歌集。後嵯峨院の中宮で,後深草・亀山両天皇の生母であった皇太后藤原姞子(よしこ)(大宮院)の下命により,1271年(文永8)に成る。平安・鎌倉時代の作り物語から歌をえらび出し,勅撰集の部立にならって配列した歌集。…

※「大宮院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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