奄美大島を原産地とする絹絣の高級着尺地(きじやくじ)。生地はしなやかで軽く,しわになりにくい利点をもつ。奄美における紬織物の起源は明らかでないが,1720年(享保5)の《大島政典録》に薩摩藩が島民に紬着用禁止令を出したことがみえることから,これ以前に紬が生産されていたことはまちがいないようである。そのころの大島紬は手引きの真綿紬糸を用いて,地機(じばた)で製織されたきわめて素朴なものであったと思われる。絣が大島紬に取り入れられたのは19世紀になってからで,その絣はトリキリと呼ばれていた。大島で織られた絣の紬織物は黒砂糖とともに,薩摩藩の献上品,交易品として藩の重要な財源であった。1850-55年(嘉永3-安政2)までの見聞に基づいて書かれた名越佐源太の《南島雑話》には,当時の紬の様子や絣の手括(てくく)り作業や泥染の工程などが図入りで説明されている。しかしこの大島紬が商品として生産され,一般に広く知られるようになったのは明治になってからである。古くは経緯(たてよこ)とも紬糸が主体となっていたが,明治になってからは経に絹糸,緯に紬糸を使い,また経緯ともに絹糸が使われるようになり,〈紬〉は名称だけのこととなった。しだいに地機を高機に替えるなど能率化がはかられたが,もっとも大きな技術的改革は絣加工用締機(しめばた)の開発であった。締機は鹿児島市中で紬工場を経営していた奄美大島出身の永江伊栄温(ながえいえお)・当八(とうはち)父子によって,1902年に発明された。これによって,さらに精巧,緻密な絣加工が可能となり,大島紬は技術的に大きな飛躍を遂げ,盛名を確固たるものとしたのである。日露戦争による好景気の中で,紬の需要は急速に増大し,生産は全郡に広がり,大島紬は黒砂糖と並ぶ主要産業となった。第2次大戦中生産は一時中絶したが,1953年奄美群島が本土復帰をしたのを契機に再び種々の技術革新や意匠の研究開発が行われた。その結果総蚊絣文様による精巧緻密な製織,色大島,摺込み抜染技術などによる多色染大島,あるいは白大島の開発などをみるにいたった。大島紬は経絣,緯絣,経緯絣と種類も多く,またテーチギ(和名シャリンバイ)の煎汁液に糸を浸し,鉄分の多い泥水につけて媒染し,焦茶色に発色させる泥染は伝統的な技法として今日も受けつがれている。現在は奄美市の旧名瀬市を中心とする奄美産地のほかに鹿児島市でも広く生産され,奄美地区は経緯絣を,鹿児島地区は緯絣を生産の主体としている。1982年度の生産高は両地区を合わせて約60万反である。1977年には〈伝統的工芸品〉の指定を受けた。大島紬は酸類に弱く,よごれは微温湯で洗い,揮発油はあまり適さない。
執筆者:北村 哲郎
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鹿児島県奄美(あまみ)大島の奄美市名瀬(なぜ)地区を中心に生産される平織の絹織物で、絣柄(かすりがら)を主とした高級着尺地。また、これに技法を同じくして生産され、「……大島」の名でよんでいる各地の絹織物を含んでさすことがある。大島紬がいつごろから生産されていたかは明らかではないが、おそらく南の久米島(くめじま)紬から技法が伝わる江戸初期ごろから盛んになり、やがて1720年(享保5)には島津藩から紬着用の制限令が出されているので、このころには一般に普及していたのであろう。藩政時代には貢納品として少量生産されたにすぎないが、明治ごろから隆盛に向かった。しかし現在では交通運輸に便利な鹿児島本土産のものが生産量も多いのが現状で、奄美から鹿児島へ移った人たちによって織られているものが多く、これも大島紬とよんでいる。第二次世界大戦前鹿児島で織られていたものは、緯(よこ)絣でこれを鹿児島大島とよんだ。それぞれの生産組合は生産地を区別しているが、いずれも大島紬には変わりはない。なお、韓国産のものも現在では一部に輸入されている。
大島紬は、もと紬糸を使用したが、明治以後には、経(たて)糸に生糸、緯糸に紬糸を、ついで経緯とも玉糸に変わり、現在では甘撚(あまよ)りの絹糸で織るようになっている。紬というもとの名称が、そのまま残されているにすぎないのである。絣糸の防染は、手括(てくび)りによる括絣によったが、現在では能率的な「むしろ」のように縛る織締機(おりしめばた)を使っている。染色は、独特の泥大島ではテーチキ(シャリンバイともいう)の樹皮を細かく刻んだものの煮出し液で染め、さらに泥土中につけ独特の黒褐色の色調を出す。いわゆる泥土中の鉄分によるタンニン含有物の鉄媒染法(いわゆる泥染め)である。このほか泥藍(どろあい)大島、藍大島や、化学染料による色大島もある。模様はもと簡単な幾何文の絣柄であったが、明治以後には細かい十字絣による絣柄へと転換する。そして精緻(せいち)な柄行を細かい絣技法により織り出すが、その大島絣独特の柄ゆきは、毒蛇(ハブ)のうろこ模様の表現にあったといわれる。
これをまねた村山大島とか伊勢崎(いせさき)大島などとよばれるものが生まれたが、「本場大島」の地位は揺るがず、独特の色の渋さと模様は、広く男女和服地として使われ、町着、普段着として愛用されている。
[角山幸洋]
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…また今日では必ずしも紬糸によらない織物でも,できあがった織りの風合いが紬らしい粗い感じをもっているものを〈紬〉と称していることもある。すなわち玉繭(たままゆ)(一つの繭を2匹以上の蚕がつくった繭)からとった玉糸や山繭糸(ヤママユ)を用いて織ったものを〈山繭紬〉などと称し,反対にたとえば大島紬のように,現在の品はまったく紬の風合いを失ってしまったものでも,かつての名称どおり〈紬〉と称しているものもある。したがって〈紬〉と通称される織物も,材質的にみた場合とできあがった外観を主としていった場合とは,その間に多少のくい違いがある。…
※「大島紬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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